日付が変わってしまったが、昨日が前期最後のゼミだった。ようやく大澤本から離れられるぜ・・・(自分が選んだくせに)。今日の要約担当はK平さん、コメントはK沼さんとF原君。
この本のラストだが、ますます色んな話に拡散して、僕も要約するのが苦痛になってきた(アガンベンやら、ベンヤミンとか、アドルノ・ホルクハイマーとか。要約が一番難しい思想家ばかり集めている気さえするな。そこが大澤先生の偉大さなのかも知れないけど)。K平さんは、「間に合わなかった」と言うことで一部手書きのレジュメで、その出来が危ぶまれたが、聞いてみると意外なことにまともな要約。ホッとする。
今日は疲れているので、内容の要約は放棄させてもらいます。このブログをご覧の10名弱の皆さま、済みません。コメントでは、K沼さんの「色々抽象的なこと言ってきたのに、現実の手触りに戻ろう、ってかんじの終わり方はいかがなものか(大意)」というコメントは苦笑しながら同意。いや、もちろん重要だとは思うんですが、これまでの「空中戦」は何だったのか、と思ったのも事実。後書きに書くのではなく、それこそペシャワール会の中村哲さんや、松本サリン事件の河野さんの「倫理」というのに的を絞ってくださっても・・・と無い物ねだりの一つもしたくなるってもんだ。
決して面白くなかったのではないけど(僕的には)、議論に向かなかったかもな・・・と反省。学生諸君に「議論しにくいものを選んでゴメンね」と謝る。
この本のラストだが、ますます色んな話に拡散して、僕も要約するのが苦痛になってきた(アガンベンやら、ベンヤミンとか、アドルノ・ホルクハイマーとか。要約が一番難しい思想家ばかり集めている気さえするな。そこが大澤先生の偉大さなのかも知れないけど)。K平さんは、「間に合わなかった」と言うことで一部手書きのレジュメで、その出来が危ぶまれたが、聞いてみると意外なことにまともな要約。ホッとする。
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決して面白くなかったのではないけど(僕的には)、議論に向かなかったかもな・・・と反省。学生諸君に「議論しにくいものを選んでゴメンね」と謝る。
後期、僕のゼミは一人1時間の個人発表ゼミ。テーマは自由に自分で設定して、1時間人を退屈させずに発表できるか、という修行の場。輪読ゼミに比べると楽かも知れぬが、「出来る発表」を見てしまうと、緊張が走るはずだし、そういう身構えを持ってもらうことも重要な点。だから、後になればなるほど「今まで色んな人の発表を聞いてきて、その程度で済むと思っているの?」と、僕の意地悪度が増すことになるので、諸君も心するように(笑)。テーマ一覧は以下の通り。
・童謡「かごめかごめ」の研究
・「貧困」について
・宗教と世界状勢(仮)
・ファッションから見る女性格差
・「理由無き犯罪世代」について
・モンスターペアレントについて
(以上3年生)
・「無宗教」と日本人
・日本人論の変遷について
・小学校歴史教科書の移り変わり
・泉州地域における地車祭の宗教的役割
・往生要集と宝物集における地獄の比較
・外国人観光客について
・アメリカ人の宗教的価値観
・現代の京都の地蔵盆について
・日本の精神療法
・幼児期・児童期の子供に見せる夢の教育的意義について―サンタクロースを中心に―
(以上4年生)
うーん、またしてもバラバラ、というか、特に3年生諸君はまだ煮詰まっていない感ありあり。
夏休みの宿題(暑中見舞いの形で個人研究の進捗状況を僕に知らせること)を忘れるんじゃないよ。
・童謡「かごめかごめ」の研究
・「貧困」について
・宗教と世界状勢(仮)
・ファッションから見る女性格差
・「理由無き犯罪世代」について
・モンスターペアレントについて
(以上3年生)
・「無宗教」と日本人
・日本人論の変遷について
・小学校歴史教科書の移り変わり
・泉州地域における地車祭の宗教的役割
・往生要集と宝物集における地獄の比較
・外国人観光客について
・アメリカ人の宗教的価値観
・現代の京都の地蔵盆について
・日本の精神療法
・幼児期・児童期の子供に見せる夢の教育的意義について―サンタクロースを中心に―
(以上4年生)
うーん、またしてもバラバラ、というか、特に3年生諸君はまだ煮詰まっていない感ありあり。
夏休みの宿題(暑中見舞いの形で個人研究の進捗状況を僕に知らせること)を忘れるんじゃないよ。
今日は大澤先生本の第5回目。僕もゼミ生も疲労の色が濃い(笑)。特に今日は本のタイトルにもなっている章「不可能性の時代」というもの。いやあ、よく判らなかったね。個別のお話しは結構面白く納得がいくのだが、それらがどう有機的につながっているのかがよく見えない憾みがある(このことを指摘したのは要約者のF本さんとコメンテーターのA部君。先生もその通りだと思います)。
話はあっちいったりこっちいったりで要約不可能なのだが(これが「不可能性の時代」というわけではない)、多重人格障害と偽記憶の問題はいかに20世紀後半に出てきたのかという話や、我々が「不可解な事件」とするものの特徴は徹底した「家族の否定」だとか、バラバラに原子化された今だからこそ「他者」を渇望しているのだとか(強烈な身体感覚に訴えるものへの耽溺もここから説明できる)、サブカルチャーでは「反復」がキーワードになっているとか(この辺の議論は、大澤先生、ほとんど東浩紀君の理説に寄りかかっている)、そういう話はちりばめられていて、要約担当者のF本さんも上記のような嘆きを漏らすのも無理はない。
K川君のコメントは、「携帯電話」というツールがどのように我々の身体を縛っているか、という実感からのもので、A部君は現在を「不可能性の時代」と診断する大澤説に「それはちょっと違うんじゃないの、その時代が終わってから懐古的に時代診断はいうべきじゃないの」というある意味真っ当な批判。A部君につられて、大澤先生に限らず、学問というのは「事実を淡々と話しているようでいて実は主張を込めているもの。多さ早生性の時代区分も事実というよりはかくあれかし、という側面が強い」、というような、要するにJ.L.オースティンのお勉強をしていた訳じゃないけど(大体僕の専門外だよ)、話の勢いで僕が口走ってしまったのは「学問というのはパフォーマティヴなものなの。コンスタティヴに見えても、それ自体が主張なの」ということに帰着してしまった。
途中でレヴィナスっぽい「顔(他者)」の倫理まで出てきて、僕も収拾不可能なので、消化不良のまま今日は終了(その直後に飲み会の約束もあったしね)。
話はあっちいったりこっちいったりで要約不可能なのだが(これが「不可能性の時代」というわけではない)、多重人格障害と偽記憶の問題はいかに20世紀後半に出てきたのかという話や、我々が「不可解な事件」とするものの特徴は徹底した「家族の否定」だとか、バラバラに原子化された今だからこそ「他者」を渇望しているのだとか(強烈な身体感覚に訴えるものへの耽溺もここから説明できる)、サブカルチャーでは「反復」がキーワードになっているとか(この辺の議論は、大澤先生、ほとんど東浩紀君の理説に寄りかかっている)、そういう話はちりばめられていて、要約担当者のF本さんも上記のような嘆きを漏らすのも無理はない。
K川君のコメントは、「携帯電話」というツールがどのように我々の身体を縛っているか、という実感からのもので、A部君は現在を「不可能性の時代」と診断する大澤説に「それはちょっと違うんじゃないの、その時代が終わってから懐古的に時代診断はいうべきじゃないの」というある意味真っ当な批判。A部君につられて、大澤先生に限らず、学問というのは「事実を淡々と話しているようでいて実は主張を込めているもの。多さ早生性の時代区分も事実というよりはかくあれかし、という側面が強い」、というような、要するにJ.L.オースティンのお勉強をしていた訳じゃないけど(大体僕の専門外だよ)、話の勢いで僕が口走ってしまったのは「学問というのはパフォーマティヴなものなの。コンスタティヴに見えても、それ自体が主張なの」ということに帰着してしまった。
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途中でレヴィナスっぽい「顔(他者)」の倫理まで出てきて、僕も収拾不可能なので、消化不良のまま今日は終了(その直後に飲み会の約束もあったしね)。
今日も例の大澤真幸本の第4回目。今日は「リスク社会再考」という章。いやあ、今回も難しかったね。噛み砕いて説明しているうちに「何で大澤先生、こんなに難しく書くんだろうね、同じことの繰り返しなのに」と自分でも驚く毒舌を吐いてしまう。要約はTさん、コメントはF田さん。今日は何故か欠席が多く、いつも以上に静かなゼミ。
今回の内容を僕なりに噛み砕くと、「神」と名付けられたような「第三者の審級」が無くなった今、我々は自分の行為の結果を自分で全て引き受けねばならず(こういうのが近代社会の「再帰性reflexivity」だな)、今までは「天災」とかで処理していたようなこと(いわゆる「危険性danger」)も、自分の選択した結果として受けとめるような感性が優勢となりつつある、これが「リスク社会」だ、ということだと思う。噛み砕きすぎかもしれないが。
要するに現代人は、これまたサルトルっぽい物言いになるが「自由を強いられている」わけだ(ついでに言うと、「快楽」すら強制されている。「仕事に生き甲斐」という言説の蔓延はその一例)。
しかも、自分が経験したこともないような事態に対して「あれかこれか」の選択を迫られることすらある。例えば「環境問題(地球温暖化問題)」とか、クローン技術のような生命科学の分野など、我々にとってまさに未知の分野に対して方向付けを行わねばならないわけだ。医療の世界ではそういうのが「インフォームド・コンセント」となって現れているのが良い例だろう。お医者さんから「どの治療が良いですか?」と聞かれたって、ほとんどの人は自信を持って選択できるはずがない。もしできるとすれば、「無理な延命治療は止めてください」とか、特殊例だとエホバの証人の患者が「無輸血で治療してください」とかを要求する程度だろう(ちなみに、僕はそういう患者に対するガイドラインを作成する作業に多少関わりつつある。病院としては「倫理委員会」を作ってそういう問題を考える姿勢を取ることが要請されているから、僕のような人間にもお呼びが掛かる)。
今回のF田さんのコメントになかなか面白い部分があった。彼女は就職活動の経験から「本当にやりたい仕事を探せ」とか「とにかく働いてみろ」という矛盾したメッセージ(典型的なダブル・バインドメッセージだよね)を送るリク○ビなどに不満を表明し(笑)、本書の「労働自体も快楽でなければならないという感覚(p.142)」について考察していた。これには就活経験者の4回生(N山さんとか)が素早く反応。就活中の「企業が何を求めているのかが曖昧模糊として解らない(しかも権限は圧倒的に向こうにある状況)」について、本書の言い方だと「まなざされている不安」のようなものを感じていたそうだ。それはよく判るなあ。何をやっても否定されるようなカフカ的不条理の世界もありえるもんね。出しゃばったら怒られ、大人しくしていたらそれも否定されたりして「ほな、どないせいっちゅうねん」といいたくもなるだろう。
そして、就職試験に落とされるときも「君は成績が悪かったから」とは言わず、「ご縁がなかった」という曖昧な言葉でごまかされるわけだが、ここから僕のお喋りが暴走。先週は色事師カサノヴァのアイロニーが出てきたが、そこでは偶然を必然と読みかえる(偶然落ちた雷を天罰と解釈するなど)「宗教性」というものが語られていたが、この「ご縁」という言葉は必然(成績が悪かった)というのを偶然(ご縁がなかった)と言い換えることによって、企業の側としても「不可抗力だったのだ」という言い訳を提供する話形ではないか、と指摘した。ヴェクトルが逆でも結局「宗教」というオチになってしまった。ウーン、これはどうしたことだ(笑)。偶然を必然と読みかえることも、必然を偶然と読みかえることも「意志が推測できる第三者の審級(神人同形論anthropomorphismのような考えだよね)」と「意志が読み取れない第三者の審級(ピューリタン的な神かなあ?)」と言うことで、存在としては表裏一体というか、等価なのかも知れないな。
でも、他者からの眼差しというのも圧倒的に重要な場合がある、とF田さんは例の秋葉原の無差別殺人事件のKを引き合いに出す。彼は「誰にも見られていない」という不安を抱えたまま暴走した(彼の供述を文字通り信じるなら、だが)。彼の「暴走」を支えた「第三者の審級」は何だったんだろうか。自分の境遇に同情を寄せてくれる「想像の共同体」だったのかも、などと彼女のコメントを聞きつつ思う。
あと、K浦さんの、セカイ系ライトのベルの構造が「強制された先験的選択」に従ったものではないか、という指摘は面白かった(彼女も元ネタが本田透のようだが)。要するにセカイ系では未熟な少年少女が「セカイの滅亡」というとてつもなく大きな問題に直面させられてあれかこれかの選択を強いられる、という話形が多いということである。
というわけで、今日も人数が少ないことも手伝って、一層僕が喋り倒して終了。
今回の内容を僕なりに噛み砕くと、「神」と名付けられたような「第三者の審級」が無くなった今、我々は自分の行為の結果を自分で全て引き受けねばならず(こういうのが近代社会の「再帰性reflexivity」だな)、今までは「天災」とかで処理していたようなこと(いわゆる「危険性danger」)も、自分の選択した結果として受けとめるような感性が優勢となりつつある、これが「リスク社会」だ、ということだと思う。噛み砕きすぎかもしれないが。
要するに現代人は、これまたサルトルっぽい物言いになるが「自由を強いられている」わけだ(ついでに言うと、「快楽」すら強制されている。「仕事に生き甲斐」という言説の蔓延はその一例)。
しかも、自分が経験したこともないような事態に対して「あれかこれか」の選択を迫られることすらある。例えば「環境問題(地球温暖化問題)」とか、クローン技術のような生命科学の分野など、我々にとってまさに未知の分野に対して方向付けを行わねばならないわけだ。医療の世界ではそういうのが「インフォームド・コンセント」となって現れているのが良い例だろう。お医者さんから「どの治療が良いですか?」と聞かれたって、ほとんどの人は自信を持って選択できるはずがない。もしできるとすれば、「無理な延命治療は止めてください」とか、特殊例だとエホバの証人の患者が「無輸血で治療してください」とかを要求する程度だろう(ちなみに、僕はそういう患者に対するガイドラインを作成する作業に多少関わりつつある。病院としては「倫理委員会」を作ってそういう問題を考える姿勢を取ることが要請されているから、僕のような人間にもお呼びが掛かる)。
今回のF田さんのコメントになかなか面白い部分があった。彼女は就職活動の経験から「本当にやりたい仕事を探せ」とか「とにかく働いてみろ」という矛盾したメッセージ(典型的なダブル・バインドメッセージだよね)を送るリク○ビなどに不満を表明し(笑)、本書の「労働自体も快楽でなければならないという感覚(p.142)」について考察していた。これには就活経験者の4回生(N山さんとか)が素早く反応。就活中の「企業が何を求めているのかが曖昧模糊として解らない(しかも権限は圧倒的に向こうにある状況)」について、本書の言い方だと「まなざされている不安」のようなものを感じていたそうだ。それはよく判るなあ。何をやっても否定されるようなカフカ的不条理の世界もありえるもんね。出しゃばったら怒られ、大人しくしていたらそれも否定されたりして「ほな、どないせいっちゅうねん」といいたくもなるだろう。
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そして、就職試験に落とされるときも「君は成績が悪かったから」とは言わず、「ご縁がなかった」という曖昧な言葉でごまかされるわけだが、ここから僕のお喋りが暴走。先週は色事師カサノヴァのアイロニーが出てきたが、そこでは偶然を必然と読みかえる(偶然落ちた雷を天罰と解釈するなど)「宗教性」というものが語られていたが、この「ご縁」という言葉は必然(成績が悪かった)というのを偶然(ご縁がなかった)と言い換えることによって、企業の側としても「不可抗力だったのだ」という言い訳を提供する話形ではないか、と指摘した。ヴェクトルが逆でも結局「宗教」というオチになってしまった。ウーン、これはどうしたことだ(笑)。偶然を必然と読みかえることも、必然を偶然と読みかえることも「意志が推測できる第三者の審級(神人同形論anthropomorphismのような考えだよね)」と「意志が読み取れない第三者の審級(ピューリタン的な神かなあ?)」と言うことで、存在としては表裏一体というか、等価なのかも知れないな。
でも、他者からの眼差しというのも圧倒的に重要な場合がある、とF田さんは例の秋葉原の無差別殺人事件のKを引き合いに出す。彼は「誰にも見られていない」という不安を抱えたまま暴走した(彼の供述を文字通り信じるなら、だが)。彼の「暴走」を支えた「第三者の審級」は何だったんだろうか。自分の境遇に同情を寄せてくれる「想像の共同体」だったのかも、などと彼女のコメントを聞きつつ思う。
あと、K浦さんの、セカイ系ライトのベルの構造が「強制された先験的選択」に従ったものではないか、という指摘は面白かった(彼女も元ネタが本田透のようだが)。要するにセカイ系では未熟な少年少女が「セカイの滅亡」というとてつもなく大きな問題に直面させられてあれかこれかの選択を強いられる、という話形が多いということである。
というわけで、今日も人数が少ないことも手伝って、一層僕が喋り倒して終了。
今日は大澤先生の本の第3章。テーマは「オタク」。要約担当はF井さん、コメントはH川くんとK山さん。
内容としては、いつものように大澤節が炸裂。オタクこそが大澤先生の「論じやすい」モデルなのかも知れないと思いつつ読み返す。それは何かというと「アイロニカルな没入」という考え方。オタクは現実と虚構の区別がついていない、という非難ほど的外れなオタク批判はない、というのはもはや周知のことと思うが、何故それが的外れかというと、オタクは「虚構(もしくは「萌え」のような記号)」と充分判った上で没入しているからである。「言われなくたって、そんなこととっくに判っているよ」というわけだ。
ぼくはここで、本田透氏の紹介をして、二次元のキャラクターに萌えることによって、生きづらい現実を乗り越えるのだ、という彼の理説を説明した。これは今日のテーマにピッタリのものだからだ。
本田氏の本はどれも同工異曲なのだが、彼の筆力のせいでついつい読んでしまう(笑)。こういうのを読んでいるのって、やはり僕一人なんだよね・・・(まあ、ゼミの半分が読んでます、と答えるのも怖いが)。
今日の議論は元々「他称」だったオタクという言葉が、いつの間にかアイデンティティ、すなわち自称となっていったのは何故かという問いや、何をもって我々は「オタク」と「マニア」「ファン」などを区別しているか、という問題に突入。こんなの、すぐに答えが出るはずないけど。
内容としては、いつものように大澤節が炸裂。オタクこそが大澤先生の「論じやすい」モデルなのかも知れないと思いつつ読み返す。それは何かというと「アイロニカルな没入」という考え方。オタクは現実と虚構の区別がついていない、という非難ほど的外れなオタク批判はない、というのはもはや周知のことと思うが、何故それが的外れかというと、オタクは「虚構(もしくは「萌え」のような記号)」と充分判った上で没入しているからである。「言われなくたって、そんなこととっくに判っているよ」というわけだ。
ぼくはここで、本田透氏の紹介をして、二次元のキャラクターに萌えることによって、生きづらい現実を乗り越えるのだ、という彼の理説を説明した。これは今日のテーマにピッタリのものだからだ。
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本田氏の本はどれも同工異曲なのだが、彼の筆力のせいでついつい読んでしまう(笑)。こういうのを読んでいるのって、やはり僕一人なんだよね・・・(まあ、ゼミの半分が読んでます、と答えるのも怖いが)。
今日の議論は元々「他称」だったオタクという言葉が、いつの間にかアイデンティティ、すなわち自称となっていったのは何故かという問いや、何をもって我々は「オタク」と「マニア」「ファン」などを区別しているか、という問題に突入。こんなの、すぐに答えが出るはずないけど。
今日は大澤先生の本の第2章「虚構の時代」という部分。要約者はH山さん、コメントはM田さんとA部君。今回の章は、まず二つの少年殺人犯を比較することから始まる。共にその時代に人々を震撼させた事件である。1968年の少年N(永山則夫)、そしてその約30年後の1997年の神戸の酒鬼薔薇聖斗(少年A)が起こした事件である。
大澤先生の分析によると、この二つの事件は対照的な様相を見せている。H山さんの作った図表を少し修正しながら書き写すと
Nは「覗き見る人」であり、Aは「覗き見られる人」であった。
共に実は「人の眼差しの力」を恐れるなり欲したりした、という違いはあるが、二人の犯罪は「人の眼差しにどう対処しようとしたか」と言うところに共通項があるように思えた。サルトルとかレヴィナスの議論を思い起こさせる話だよな(実際、レヴィナスは引用されているけど。「汝、殺すなかれ」という顔の倫理学だ)。
この「顔の倫理」あたりは、僕は内田樹先生のレヴィナス論から学ばせていただいたが、学生諸君から「説明しろ」と言われて立ち往生する(笑)。僕は苦し紛れに「死刑のときどうして顔を覆う頭巾をかぶらせたり、目隠しをしたりするのか。それはその眼差し、つまり顔が汝、殺すなかれとの命令を下すからではないのか」とか、「戦場でも人に向けて銃を撃つというのはものすごい心理的抵抗があるものだ。新兵訓練はその感覚を麻痺させることに主眼がおかれる」という話をしたり、「レヴィナスをもう一度引用すると、挨拶というのはその人の存在そのものを祝福する行為なのであり、人間は他者に挨拶するために存在しているのだ」なんてことまで口走り、自分で何を言っているのか判らなくなる。
(↑戦場で人に向けてなかなか弾を撃てない、という僕の雑談の元ネタ)
(↑岩田先生からもレヴィナスのイロハを教えていただいた)
大澤先生の議論はこのあと「新人類」論や、森田芳光の「家族ゲーム」論や、ディズニーランド論や、連合赤軍論、三島由紀夫、村上春樹論などにどんどんスライドしていき、要約するのは困難だが、やはり面白いなあ(みなさんはちょっとついていけないものを感じるかも知れないが)。
今日のコメントで面白いと僕が思ったのは、まずM田さんの「魂を宿したものは壊しにくい(壊すことに抵抗がある)」という発言。まあ、これは彼女がレヴィナスの「顔の倫理」を自分の言葉で言い換えようとしたものだが、僕は彼女の言葉から逆に「魂とは壊しても壊しても壊しきれないと想定される残余」ではないか、と逆から考えてしまった(こういう発送がB型らしいかも知れないが)。
A部君のコメントでは、彼が昔僕の授業で読んだ『ディズニーランドという聖地』を引用しつつ、その虚構性の抗いがたい魅力として「ディズニーランドは永山則夫の欠落した子ども時代と、酒鬼薔薇聖斗が欲しかった自分を主役として見つめる目を併せ持った虚構空間になっているのではないか」という問題提起をした。これは面白い発想だと思う。鋭い。
この前の秋葉原事件のような「劇場型犯罪」も、他者の眼差しを欲した犯罪だった点で通じるものがあるだろう(これはH野君も指摘した)。
サルトルではないが、やはり「他人は地獄」なのかも知れない。
大澤先生の分析によると、この二つの事件は対照的な様相を見せている。H山さんの作った図表を少し修正しながら書き写すと
<犯罪のベクトル>
Nは「家郷→都会」 Aは「大都市の郊外」
<家族との関係>
Nは家族に疎外された Aは家族に積極的に介入された
<他者の目>
Nには地獄だった Aは「透明な存在」でいることを嫌がった
<殺人の動機>
Nには一応(万人が理解可能な)理由があった Aは殺人自体を目的とした(理解不能)
Nは「覗き見る人」であり、Aは「覗き見られる人」であった。
共に実は「人の眼差しの力」を恐れるなり欲したりした、という違いはあるが、二人の犯罪は「人の眼差しにどう対処しようとしたか」と言うところに共通項があるように思えた。サルトルとかレヴィナスの議論を思い起こさせる話だよな(実際、レヴィナスは引用されているけど。「汝、殺すなかれ」という顔の倫理学だ)。
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この「顔の倫理」あたりは、僕は内田樹先生のレヴィナス論から学ばせていただいたが、学生諸君から「説明しろ」と言われて立ち往生する(笑)。僕は苦し紛れに「死刑のときどうして顔を覆う頭巾をかぶらせたり、目隠しをしたりするのか。それはその眼差し、つまり顔が汝、殺すなかれとの命令を下すからではないのか」とか、「戦場でも人に向けて銃を撃つというのはものすごい心理的抵抗があるものだ。新兵訓練はその感覚を麻痺させることに主眼がおかれる」という話をしたり、「レヴィナスをもう一度引用すると、挨拶というのはその人の存在そのものを祝福する行為なのであり、人間は他者に挨拶するために存在しているのだ」なんてことまで口走り、自分で何を言っているのか判らなくなる。
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(↑戦場で人に向けてなかなか弾を撃てない、という僕の雑談の元ネタ)
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(↑岩田先生からもレヴィナスのイロハを教えていただいた)
大澤先生の議論はこのあと「新人類」論や、森田芳光の「家族ゲーム」論や、ディズニーランド論や、連合赤軍論、三島由紀夫、村上春樹論などにどんどんスライドしていき、要約するのは困難だが、やはり面白いなあ(みなさんはちょっとついていけないものを感じるかも知れないが)。
今日のコメントで面白いと僕が思ったのは、まずM田さんの「魂を宿したものは壊しにくい(壊すことに抵抗がある)」という発言。まあ、これは彼女がレヴィナスの「顔の倫理」を自分の言葉で言い換えようとしたものだが、僕は彼女の言葉から逆に「魂とは壊しても壊しても壊しきれないと想定される残余」ではないか、と逆から考えてしまった(こういう発送がB型らしいかも知れないが)。
A部君のコメントでは、彼が昔僕の授業で読んだ『ディズニーランドという聖地』を引用しつつ、その虚構性の抗いがたい魅力として「ディズニーランドは永山則夫の欠落した子ども時代と、酒鬼薔薇聖斗が欲しかった自分を主役として見つめる目を併せ持った虚構空間になっているのではないか」という問題提起をした。これは面白い発想だと思う。鋭い。
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この前の秋葉原事件のような「劇場型犯罪」も、他者の眼差しを欲した犯罪だった点で通じるものがあるだろう(これはH野君も指摘した)。
サルトルではないが、やはり「他人は地獄」なのかも知れない。
今日から新しい本。大澤真幸先生の新刊だ。
僕としては、ゼミという機会を用いて、大澤先生の新刊を読んで、みんなにもちょっと抽象的な思考を学んで欲しいと思った次第。今日の要約者はD谷くん、コメンテーターはN山さん(咳で辛そうだった。早く治すようにね)、H野くん。
今日は序章と第一章を読む。序章のタイトルが「「現実」への逃避」という、ある意味これまたキャッチーなネタ。僕もついつい調子に乗って例の秋葉原の通り魔事件などに言及してしまう。
第一章は「理想の時代」というタイトル。これは敗戦後からしばらくの間の時代を見田宗介先生(大澤先生にとってもお師匠様だよな。僕も般教の「社会学」を習って優をいただいた)に習い「理想の時代」と措定し、アメリカや「土地」が戦後日本人にとって持っていた意味は何だったのか、という問題を矢継ぎ早に進めていく。要約者も困るが、補足説明をする僕も困る。それでついつい喋りすぎて、却ってみんなを沈黙させるんだよな。
重引になるが、戦後の天皇制に対する柳田国男と折口信夫の対照的な視座が興味深かった(元もと内田隆三先生の説。内田先生にも柳田の「日本の祭」で適当なレポート書いたら優をもらった。多謝)。
今日、議論になったのは「戦前と戦後の連続性」について。最近の社会学や歴史学では、ある意味常識に属する事柄だが、大澤先生のこの本では、ジョン・ダワーなどを引用しつつ、「上がすり替わっただけ」、要するに天皇(天皇によって義認された死者)からアメリカに「第三者の審級(出た!)」がスライドしただけ、ということが述べられる。
H野君は、吉見先生の本などを引用してなかなか頑張っていた。曰く「戦前からの連続性というのは、日本人の中に孕んでいる、アメリカ的なものに対する羨望や欲望の連続性ではないだろうか」と。
でも、相変わらずゼミは静か。来週から一つ一言ずつ無理矢理にでもあてようかな。
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僕としては、ゼミという機会を用いて、大澤先生の新刊を読んで、みんなにもちょっと抽象的な思考を学んで欲しいと思った次第。今日の要約者はD谷くん、コメンテーターはN山さん(咳で辛そうだった。早く治すようにね)、H野くん。
今日は序章と第一章を読む。序章のタイトルが「「現実」への逃避」という、ある意味これまたキャッチーなネタ。僕もついつい調子に乗って例の秋葉原の通り魔事件などに言及してしまう。
第一章は「理想の時代」というタイトル。これは敗戦後からしばらくの間の時代を見田宗介先生(大澤先生にとってもお師匠様だよな。僕も般教の「社会学」を習って優をいただいた)に習い「理想の時代」と措定し、アメリカや「土地」が戦後日本人にとって持っていた意味は何だったのか、という問題を矢継ぎ早に進めていく。要約者も困るが、補足説明をする僕も困る。それでついつい喋りすぎて、却ってみんなを沈黙させるんだよな。
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重引になるが、戦後の天皇制に対する柳田国男と折口信夫の対照的な視座が興味深かった(元もと内田隆三先生の説。内田先生にも柳田の「日本の祭」で適当なレポート書いたら優をもらった。多謝)。
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今日、議論になったのは「戦前と戦後の連続性」について。最近の社会学や歴史学では、ある意味常識に属する事柄だが、大澤先生のこの本では、ジョン・ダワーなどを引用しつつ、「上がすり替わっただけ」、要するに天皇(天皇によって義認された死者)からアメリカに「第三者の審級(出た!)」がスライドしただけ、ということが述べられる。
H野君は、吉見先生の本などを引用してなかなか頑張っていた。曰く「戦前からの連続性というのは、日本人の中に孕んでいる、アメリカ的なものに対する羨望や欲望の連続性ではないだろうか」と。
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でも、相変わらずゼミは静か。来週から一つ一言ずつ無理矢理にでもあてようかな。
今日のタイトルは、身も蓋もないけど、人間心理の性であり、格言。
今日は『アメリカ文化の日本体験』の最終日。要約はK浦さん、コメントはM田さんとK山さん。
今日読んだ部分は「アジアで最も黄色人種らしからぬ人々」という章で、要するに明治日本の発展振りを目の当たりにしたアメリカ人が「日本人は中国人とか、他のアジア人とは人種からして違う」「よく見ると、けっこう白人に近いかも」「ロシアよりも日本の方が文明的だし、日本人を白人の一員にしてあげても良いんじゃないか」などと議論していた、というお話。まあ、要するに「黄禍論」の裏返しですな。
参考文献として、この橋川文三の本を回す。
裏返せば、アメリカの白人は「日本人、結構やるじゃん」→「これだけやれるというのは、彼等は白人に近い素質を持っているに違いない」→「名誉白人認定決定」というプロセスを経た、ということで、彼等は「アジア人も白人に匹敵する事業を成し遂げられる。ゆえに人種で優劣を論じるのは間違い」とは決してならなかったというのが今回のキモ。心理学者なら「認知的不協和理論ね、はいはい」と流してしまいたくなる事例だろう。別の言い方をすれば「日本(という他者)を経験し損なったアメリカ」の百年前の姿を教えてくれた本だったといえようか。
人種や民族の境界性が恣意的で可塑性に富む、というのはベネディクト・アンダーソン以来の「想像の共同体としての国民」論や、このところの構築主義的アプローチで明らかなわけだが、いくら口を酸っぱくしていっても、レイシズムは治まらないのも事実だ。この百年前の姿は決して今日の我々に無関係ではない(こういう状況を広く「ポストコロニアル」と呼ぶのである)。
で、今回の僕自身の反省点を述べておこう。こういう歴史研究の本を選ぶと、基本的に「それを知っているか否か」というモードになりやすく、自由な議論がしづらい憾みがあったと思う。しかも、去年、一昨年のゼミでは、けっこうどんな話題も拾って何か喋ろうとする数名のゼミ生がいたおかげで(心当たりがあるだろう)、議論が表面上が盛り上がって見えていたもので、僕がゼミ運営の努力を怠っていたことは否めないと思う。
で、次はいきなり議論していただきたいと思い、社会学の本。来週から、積極的に好き放題いっちゃってね。
今日は『アメリカ文化の日本体験』の最終日。要約はK浦さん、コメントはM田さんとK山さん。
今日読んだ部分は「アジアで最も黄色人種らしからぬ人々」という章で、要するに明治日本の発展振りを目の当たりにしたアメリカ人が「日本人は中国人とか、他のアジア人とは人種からして違う」「よく見ると、けっこう白人に近いかも」「ロシアよりも日本の方が文明的だし、日本人を白人の一員にしてあげても良いんじゃないか」などと議論していた、というお話。まあ、要するに「黄禍論」の裏返しですな。
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参考文献として、この橋川文三の本を回す。
裏返せば、アメリカの白人は「日本人、結構やるじゃん」→「これだけやれるというのは、彼等は白人に近い素質を持っているに違いない」→「名誉白人認定決定」というプロセスを経た、ということで、彼等は「アジア人も白人に匹敵する事業を成し遂げられる。ゆえに人種で優劣を論じるのは間違い」とは決してならなかったというのが今回のキモ。心理学者なら「認知的不協和理論ね、はいはい」と流してしまいたくなる事例だろう。別の言い方をすれば「日本(という他者)を経験し損なったアメリカ」の百年前の姿を教えてくれた本だったといえようか。
人種や民族の境界性が恣意的で可塑性に富む、というのはベネディクト・アンダーソン以来の「想像の共同体としての国民」論や、このところの構築主義的アプローチで明らかなわけだが、いくら口を酸っぱくしていっても、レイシズムは治まらないのも事実だ。この百年前の姿は決して今日の我々に無関係ではない(こういう状況を広く「ポストコロニアル」と呼ぶのである)。
で、今回の僕自身の反省点を述べておこう。こういう歴史研究の本を選ぶと、基本的に「それを知っているか否か」というモードになりやすく、自由な議論がしづらい憾みがあったと思う。しかも、去年、一昨年のゼミでは、けっこうどんな話題も拾って何か喋ろうとする数名のゼミ生がいたおかげで(心当たりがあるだろう)、議論が表面上が盛り上がって見えていたもので、僕がゼミ運営の努力を怠っていたことは否めないと思う。
で、次はいきなり議論していただきたいと思い、社会学の本。来週から、積極的に好き放題いっちゃってね。
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なんか、えらく大仰なタイトルになっちゃったな。
今日はJ.M.ヘニングの本の4章、5章。要約担当者はH川くん、コメントはK浦さんとN山さん。
内容としては、4章が「アメリカの芸術家たちが、いかにして日本を本質主義的な眼差しで見ていたか」という典型的な「オリエンタリズム問題」、第5章が大隈重信、井上馨、伊藤博文、陸奥宗光たちの外交努力がいかなるもので、アメリカの世論やジャーナリズムは「近代化」する日本をどのように評価したか、というもの。H川君も、特に第5章の政治史的な流れの要約に手こずって(僕としては適当に流してくれても良かったのだが、学生の立場としてはそうもいくまい)、その背景にある文化史的なことになかなか目が行き届かなかったことがちょっと残念(端的には「憲法」というものがどのような意味を持っていたか、というような問題。「東洋的専制」の偏見をいかにして取り除くか、黄禍という評判をどのようにして取り除くか、なんてことだが)。
第4章でアメリカの芸術家たちに対置する形で岡倉覚三(天心)が引用されるのだが、僕は天心や新渡戸稲造のように英語で日本の宣伝をした人たちを「戦略的本質主義」の走りだと評価したい、と解説を加える。内向きには「国粋主義(これはN山さんのレジュメにあったが、三宅雪嶺や陸羯南)」、外向きには天心や新渡戸などが巧まざる役割分担を行った、というのが明治中興期の思想史的な流れだと個人的には思う。
あとは福沢諭吉の「脱亜論」の解説をちょっとする。この辺は、修論で詳しくやったことだから、まあ得意な方だよな。
K浦さんのコメントもなかなか面白かった。彼女は、「先進国の男性と後進地域の女性」という組み合わせの多さ(蝶々夫人とかポカホンタス)や、「後進地域の男どもはろくでなしと表象される」という重要な指摘を行いつつ、主にアジア人達がハリウッド映画でどのように扱われたか、ということで、以下の本を引用していたのだ。
この本は、数年前の卒業生で、「アメリカ映画における日本人」というテーマで卒論を書いたH田さんや、「ヴェトナム戦争を題材にした映画」というテーマで卒論を書いたY城さんの面倒を見るついでに、付き合いで読んだのだった(硬派至る皆さんも、先輩達の卒論を読んでみると良いかも)。
今日も僕だけはしゃべり過ぎちゃった。反省はしてないけど、再来週あたりからもうちょっと議論が盛んになれば、と思う。ゼミで喋ると、就活の時の「集団面接」や「グループトーク」に強くなるのに(とN山さんが言っていた)。
今日はJ.M.ヘニングの本の4章、5章。要約担当者はH川くん、コメントはK浦さんとN山さん。
内容としては、4章が「アメリカの芸術家たちが、いかにして日本を本質主義的な眼差しで見ていたか」という典型的な「オリエンタリズム問題」、第5章が大隈重信、井上馨、伊藤博文、陸奥宗光たちの外交努力がいかなるもので、アメリカの世論やジャーナリズムは「近代化」する日本をどのように評価したか、というもの。H川君も、特に第5章の政治史的な流れの要約に手こずって(僕としては適当に流してくれても良かったのだが、学生の立場としてはそうもいくまい)、その背景にある文化史的なことになかなか目が行き届かなかったことがちょっと残念(端的には「憲法」というものがどのような意味を持っていたか、というような問題。「東洋的専制」の偏見をいかにして取り除くか、黄禍という評判をどのようにして取り除くか、なんてことだが)。
第4章でアメリカの芸術家たちに対置する形で岡倉覚三(天心)が引用されるのだが、僕は天心や新渡戸稲造のように英語で日本の宣伝をした人たちを「戦略的本質主義」の走りだと評価したい、と解説を加える。内向きには「国粋主義(これはN山さんのレジュメにあったが、三宅雪嶺や陸羯南)」、外向きには天心や新渡戸などが巧まざる役割分担を行った、というのが明治中興期の思想史的な流れだと個人的には思う。
あとは福沢諭吉の「脱亜論」の解説をちょっとする。この辺は、修論で詳しくやったことだから、まあ得意な方だよな。
K浦さんのコメントもなかなか面白かった。彼女は、「先進国の男性と後進地域の女性」という組み合わせの多さ(蝶々夫人とかポカホンタス)や、「後進地域の男どもはろくでなしと表象される」という重要な指摘を行いつつ、主にアジア人達がハリウッド映画でどのように扱われたか、ということで、以下の本を引用していたのだ。
![]() | イエロー・フェイス―ハリウッド映画にみるアジア人の肖像 (朝日選書) (1993/02) 村上 由見子 商品詳細を見る |
この本は、数年前の卒業生で、「アメリカ映画における日本人」というテーマで卒論を書いたH田さんや、「ヴェトナム戦争を題材にした映画」というテーマで卒論を書いたY城さんの面倒を見るついでに、付き合いで読んだのだった(硬派至る皆さんも、先輩達の卒論を読んでみると良いかも)。
今日も僕だけはしゃべり過ぎちゃった。反省はしてないけど、再来週あたりからもうちょっと議論が盛んになれば、と思う。ゼミで喋ると、就活の時の「集団面接」や「グループトーク」に強くなるのに(とN山さんが言っていた)。
今日はキリスト教宣教師たちの活躍振りと、日本に「進化論」などの世俗的な知識をもたらしたおやとい外国人の活躍を振り返る主旨の章を読む。要約担当者はK川君、コメンテーターはA部君とF田さん。
19世紀アメリカを席捲していた福音主義的信念を持った宣教師たちは、基本的に「文明化」=「キリスト教化」、もしくは文明とキリスト教の不可分性を信じ、その実践の一つとして、沃土に見えた日本に大挙して押しかけたのだが・・・というのが本編のあらすじ。僕の方から学生諸君に「文明と文化の違い」を色々聞いたが、そんな質問されるとは思わなかった、という反応が多かったな。みなさん、ゆめゆめ油断しないように。僕は時々意地悪になります。
A部君のコメントは、いわゆる当時の「進化論」及び「宗教進化論」を絡めた宗教学的なコメント、F田さんのは明治初期のキリスト教の受容のされ方を、僕が貸した森岡先生の本(ちょっと古いけど、名作)を参照しつつ述べたものだった。
お隣の韓国ではあれほどキリスト教が盛んなのに、いち早く宣教師を受け入れた日本がいまだに人口の1パーセントもクリスチャンがいないのは宗教社会学上最大の謎の一つとされてきたが(ちょっと大袈裟だけど)、実際熱心且つ人格高潔な宣教師が潮のように日本を訪れたのに、文化的遺産はともかくとして(ミッションスクールが典型的だが、彼等の遺産は大きいのだ)、宗教的遺産の少なさは何故かという疑問は常に僕の脳裏にもある。最後は「じゃあ、先生はどうしてだと思いますか」とN山さんに聞かれたので、僕の思うところをつらつら述べる。
要するにそれは、キリスト教が「家の宗教」になれなかったから、定着しなかったということ。別に目新しい説でも何でもないが、僕はこれが一番説得力があるとおもう。別の言い方をすれば、「先祖祭祀と深く関わることができるか否か」が広く受容されるかどうかという一番判りやすいメルクマールになるとすら思っている。これは、いわゆる江戸時代に形成された檀家制度が何故いまだに衰えずに、「葬式仏教」だとか陰口をたたかれながらも維持されているか、ということを考えればよいだろう。あれは上からの強制に沿って形成されたものではあるが、すでに「家の宗教」と化しているので、それを止めるには相当のエネルギーを用いざるを得ない代物になっている。
また、明治初期は「武士道クリスチャン」といわれたように、士族層が入信することが多かったが、これが仕える主君も政府もなくした「(精神的な)故郷喪失者」たる人々が、それまでのしがらみを全て捨てるという意味もあって多く入信したのではなかっただろうか(もちろん、当時もたらされた禁欲的なプロテスタンティズムが倫理性を重んじる士族に高潔なものとして受容された、ということもあろう)。
てなわけで、結局僕の方からする「明治宗教史概説」みたいな話になって今日は終わってしまったな。喋りすぎて済まない。けど、みんなももっと発言してくださいね。
19世紀アメリカを席捲していた福音主義的信念を持った宣教師たちは、基本的に「文明化」=「キリスト教化」、もしくは文明とキリスト教の不可分性を信じ、その実践の一つとして、沃土に見えた日本に大挙して押しかけたのだが・・・というのが本編のあらすじ。僕の方から学生諸君に「文明と文化の違い」を色々聞いたが、そんな質問されるとは思わなかった、という反応が多かったな。みなさん、ゆめゆめ油断しないように。僕は時々意地悪になります。
A部君のコメントは、いわゆる当時の「進化論」及び「宗教進化論」を絡めた宗教学的なコメント、F田さんのは明治初期のキリスト教の受容のされ方を、僕が貸した森岡先生の本(ちょっと古いけど、名作)を参照しつつ述べたものだった。
![]() | 日本の近代社会とキリスト教 (1970年) (1970) 森岡 清美 商品詳細を見る |
お隣の韓国ではあれほどキリスト教が盛んなのに、いち早く宣教師を受け入れた日本がいまだに人口の1パーセントもクリスチャンがいないのは宗教社会学上最大の謎の一つとされてきたが(ちょっと大袈裟だけど)、実際熱心且つ人格高潔な宣教師が潮のように日本を訪れたのに、文化的遺産はともかくとして(ミッションスクールが典型的だが、彼等の遺産は大きいのだ)、宗教的遺産の少なさは何故かという疑問は常に僕の脳裏にもある。最後は「じゃあ、先生はどうしてだと思いますか」とN山さんに聞かれたので、僕の思うところをつらつら述べる。
要するにそれは、キリスト教が「家の宗教」になれなかったから、定着しなかったということ。別に目新しい説でも何でもないが、僕はこれが一番説得力があるとおもう。別の言い方をすれば、「先祖祭祀と深く関わることができるか否か」が広く受容されるかどうかという一番判りやすいメルクマールになるとすら思っている。これは、いわゆる江戸時代に形成された檀家制度が何故いまだに衰えずに、「葬式仏教」だとか陰口をたたかれながらも維持されているか、ということを考えればよいだろう。あれは上からの強制に沿って形成されたものではあるが、すでに「家の宗教」と化しているので、それを止めるには相当のエネルギーを用いざるを得ない代物になっている。
また、明治初期は「武士道クリスチャン」といわれたように、士族層が入信することが多かったが、これが仕える主君も政府もなくした「(精神的な)故郷喪失者」たる人々が、それまでのしがらみを全て捨てるという意味もあって多く入信したのではなかっただろうか(もちろん、当時もたらされた禁欲的なプロテスタンティズムが倫理性を重んじる士族に高潔なものとして受容された、ということもあろう)。
てなわけで、結局僕の方からする「明治宗教史概説」みたいな話になって今日は終わってしまったな。喋りすぎて済まない。けど、みんなももっと発言してくださいね。














