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文化としてのコーヒー 

今日の発表者はW君。彼はジャズ研の部長且つコーヒーフリークという顔を持つ男。最初は「ジャズ」で僕のゼミの発表を行おうと試みていたのだが、うまくまとまらず、もう一つの「コーヒー」に方向転換。

彼が中心にしたがっていたのは(この発表ではうまく言えなかったけど)、「文化としてのコーヒー」というテーマだ。コーヒーという嗜好品がどのような歴史を持っているのか、どのように消費されているのか、という問題の紹介といったおもむきだった。その手の本では白井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書、1992年)という名著がある。彼もこの路線で進めたいようだったが、ちょっと踏み込みが足りなかった。残念。同じように、嗜好品を中心とした「歴史」の見方については、同じく中公新書で角山榮『茶の世界史』というのもある。このようなものとの比較も重要だろう。彼の紹介した事例では、イギリスのコーヒーハウスが、「男たちの社交場」というホモソーシャルな場を作り出したのとは反対に、フランスの宮殿では女性が中心に「コーヒー文化」を楽しんでいたそうだ。ベルばらでおなじみのデュ・バリー夫人(マリー・アントワネットに「今日のベルサイユは大変な人ですこと」と言わせた人。ルイ15世の愛人)が凝っていたそうな。一つトリビアが増えた。

また、僕としては、スターバックスが焼き討ちに遭うなどした「反グローバリズム」の文脈の問題も考えて欲しいところだ。

まだ、総花的にコーヒーについての文献を集めた段階なので、これからどこに的を絞るか、だ。頑張って欲しい。

でも、特筆されるべきは、今回は「実演」付きの発表だったこと。彼が家からマニアックに集めたコーヒー関連の品々を持ってきて、ゼミ生全員にコーヒーを淹れてくれたのだ!!こういう試みは大好きだ。昔、僕の友人の小林君(実名)が、ウェーバーの『音楽社会学』に触発されて、ギターを持ち込んでゼミ発表して以来の衝撃だ(笑)。あと、後輩の中谷君(実名)も、「デス・メタルにおける死の表象」なんていう発表で、朝っぱらから聞きたくもないメタル系の音を延々聞かせてくれた発表をしたこともあるが、こういう実演付きの発表は大歓迎。外す危険性も高いが(笑)、その心意気は高く買いますよ、僕は。
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買春問題について 

今日は卒論を抱えた4年生のOさんの発表。Oさんは卒論で、主に東南アジアから日本に「出稼ぎ」に来た女性の売春問題=日本人男性の買春問題に取り組もうとしていて、今回の発表はその中間報告+α。「+α」の部分は、彼女が実際に話を聞きに行ったNGOについての説明部分。

まず、日本はアメリカから人身売買について「要監視国」と名指しされたほど、この問題についてはひどい実態が続いている(国の恥、ということで慌てて刑法が改正され「人身売買罪」がようやく付け加えられたほどだ)。「じゃぱゆきさん」問題をはじめとして、中間業者(ブローカーやらヤクザやら)が関わって、強制売春をさせている実態がある。彼女はそのメカニズムとともに、特に海外における少女買春に反対するNGOの活動を報告してくれて、非常に興味深かった。この運動も、一人の篤実なクリスチャンから始まった、というのも、宗教学者として興味が惹かれるところだ。

悲惨な実態、ほとんど奴隷制かと見まがうような実態に対しては、もちろんNOの声を上げるべきだし、それに反対することに否応もない。しかし、問題は様々なファクターが関わっており、コメントでW君やI君が言ったように、「日本側だけの問題じゃない」ところが、頭の痛い部分だ。「プッシュ要因」「プル要因」とよくいうが、送り出す側、受け取る側の双方が同時に動かなければ、恐らく実効的なものとはなり得ないだろう。「買春は男の甲斐性」と言うほど露骨な物言いは、最近の若い日本人はしないかも知れないが、海外で放埒に買春するものは後を絶たないし、ネット上でもその手の情報は飛び交っている(僕もいくつか見たことがあり、まさに「人身売買(身請け)」の体験談を書いているサイトも発見したことがある)。「意識改革」というのは一番難しい分野だが、じっくりと進めていくことは、やはり必要であろう。

あと、議論の本筋とは外れるが、このNGOはいわゆる児童ポルノ(日本国内の、明示はしていないが明らかに小学生以下の女の子を扱ったポルノグラフィ。マンガやゲームが多い)に対しても反対の声を上げていて、「表現の自由」云々と言うことで色々たたかれているとも聞く。これも難しい問題だ。

今回のOさんの発表は、結論を出せるようなものではなく、各人がそれぞれ問題を深めていくのを促すような力があったと思う。まとまらないのがまとめ、だな、こりゃ。

身体・女性性・自己規律 etc. 

今日のゼミ発表は、卒論を抱えた4年生の一人、Yさんの発表。
彼女のテーマは、ずばり「摂食障害」。過食症・拒食症をともに合わせた概念だが、これまでもよく指摘されてきたとおり、摂食障害の原因として、個人的な資質や肉体的な器質異常の他に、やはり心理的、もしくは社会的要因が大きなウェイトを占めることは容易に想像がつくだろう。やせを良しとする社会風潮、と一言で言ってもよいが、これには「女性の体はかくあるべし」というような規範(ジェンダー問題ですわな)、「太るのは自己管理もできない人間」という人格にまで及ぶ批判(アメリカとかでは喫煙に対しても同様の言説が聞かれるわけだが)まで話は及ばざるを得ず(自己規律の問題)、ダイエットの「中毒性」など(自己管理の対象としての身体、というのは、僕の見立てでは、どうもアディクトしやすい対象だと思う)、「摂食障害」というテーマは実は非常に広いパースペクティヴを必要とする課題だと思う(彼女がどれだけ自覚しているかは心許ないが)。
彼女は主に、上記の社会的(メディアの流す情報に踊らされることなど)、もしくは心理的(女性性に対するオブセッションなど)な要因を中心に論を進めようと格闘中(まあ、文学部の卒論なんだから、当然なんですが)。
摂食障害の男女比は1:10とまで言われるほど、圧倒的に女性に多いのはよく知られているし、年齢的にも、やはり10代から20代の女性に偏在していることも、何となく感覚的にわかる話であろう。しかし、問題は何故それが我々に「感覚的に判ってしまうのか」ということだ。

彼女には「女性雑誌の広告や、インターネットのオンラインショップに、こんなにダイエット関係のものがあります」というのから一歩進んで(このままだと、広告などを巡って卵・鶏めいたトートロジカルな構造に落ち込んでしまう)、摂食障害の女性たちの身体イメージなどを中心にして、その先に行って欲しいと思う。どんな「先」かは、僕にもよくイメージできないのだけど。

甘い顔を見せすぎたかも 

今日の2年生向けの「基礎ゼミ」は、発表者とコメンテーターが共にちゃんとしたレジュメを持参しなかったため、急遽取りやめ。ということで、この基礎ゼミの担当は、全て一週間ずつずれることとなった。
もちろん怒りはあるけど、それよりも先ず呆れてしまった。「あ~あ」としか言えない状況。
これまでも、ちょっと甘い顔をしすぎたのかも、と反省。
同僚の他の授業は、僕の目から見ても結構厳しめなので、そのあたりで鍛えられているかな、と甘い期待をした僕でしたが、その期待が裏切られた形だ。勝手に期待しておいて、勝手に失望する僕も、まあ勝手なものだけれど。

「伝統」の創造と生き残り策 

今日の発表者はM君。彼は鹿児島出身で、地元の薩摩焼及び、佐賀の有田焼に興味を持ち、それをネタに卒論を執筆する予定。
今回の発表は、卒論とは別個に現在の有田焼の現状の報告、というおもむきだった。

周知のように有田焼は秀吉の朝鮮侵略の際に連れてこられた陶工たちによって開かれたものだが、その朝鮮人陶工の末裔が、いわば「伝統」を復活、というか「創造」しようとしているのだそうだ。というのも、M君が取材した家は、途中で途絶えたとさえ評され、先代が尽力して家を「復興」したのだが、まだ柿右衛門や今右衛門のような「メジャーブランド」にまでは昇格していないので、今、一所懸命頑張っている、という話で、これはこれで面白かった。

今日、学生のみんなに考えて欲しかったのは、グラフの見方。M君は有田町が示す各種グラフを豊富に引用して発表してくれたわけだが、ついつい「右肩上がり(下がり)」の傾向性に目がいってしまい、「上り調子である(落ち目である)」と気安く断言したくもなるわけだが、それはいかがなものか、と釘を刺す。僕自身、統計資料を利用した研究などはしたこともなく、クロス調査さえまともに経験したことがない「統計の素人」だが、単純な傾向性にばかり目がいくと、「現状維持」という実は大変な「努力」を見落とすことになるのでは、と思ったのだ。不景気だったり、ライバルである他の観光地とかとの熾烈なバトルの果ての「現状維持」だったら、むしろ褒められるべき、というか「ちょっと上向き」と評しても良いんじゃないの、といいたかったわけだ。もちろん、グラフを(主観的に)深読みしすぎて、自分の願望を練り込ませたらダメなのだが。

あと、今日みんなの議論で出てきたのは、「芸術」か「商品」か、という二項対立。M君の発表では、どうも前者を前面に押し立てての「生き残り策」というのが見えてくるのだが、敢えてこの二項対立図式に乗っかると、有田焼も、そのほとんどが「商品」としての流通であり、「ブランド」「芸術品」としての流通などは、ごく限られたものだろう。それに芸術、ブランドいう社会文脈的に構築されるものをまさに「構築」しようとする現在の人々の努力の行方は気になるのだが、個人的にはどこまで成功するかは多分に疑わしいと思った。
僕はゼミの最中に「ユニクロライク」「100円ショップライク」というデタラメな英語を創ったが、その言葉の含意するところは現在はユニクロに代表されるように、「そこそこの値段で、そこそこの品質をキープしている商品」が大量に出回っており、品質や安さが独立して「売り」にならない状況だということだ。100円で手に入るそこそこのものに満足すると、150円のちょっと良いものを買う気が失せる。僕個人は、そういう世の風潮が必ずしも良いものだとは思っていない。最後はこうした雑談で閉めてしまったが、有田焼に限らず「made in Japan」の生き残る道は険しいだろうな、とぼんやり思った。
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