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飛び道具 

今日が最後の学部ゼミ。発表者はM田さん。彼女は最初言語学系の発表をすると言っていたのだが、それを止めて、何故か今日の発表題目は「忍者」。最後の最後に、こんな「飛び道具」が来るとは思いませんでした(笑)。

とはいえ、なかなかよく調べていた。男で戦国マニアとか忍者に詳しい奴はいても、女の子でここまで忍者に詳しいのは、恐らく全国でも少ないだろう。我々は講談やマンガ、映画などで繰り返し「超人としての忍者」のイメージを植え付けられているわけだが、もちろん江戸時代に「御庭番」などをしていた伊賀者の末裔はそんなことをしていたわけもない。そのイメージと実像のギャップというところに踏み込むか、という直前で、彼女の発表は終わっていたような気がする。惜しい。
それなりに忍者の歴史を丹念に追い、図版なども多く使用して判りやすい発表ではあったが(こんなに笑いの起こった発表も珍しかった)、やはりどうしても全体の「概略」に終わり勝ちで、それもちょっと不満。それこそ、彼女が参考文献に上げた『別冊歴史読本』の忍者特集巻のようなものになってしまう。つまり、何を中心に据えるべきかが、まだ彼女の中でも固まっていなかったのであろう。レポートでは、何を中心に据えるのかを検討して欲しい。
忍者に関しては立川文庫が虚構としての忍者イメージを決定づけたことはよく知られている。ちょうど、『三国志演義』が果たした役割と比定できるであろう。その辺りを調べるのも手だろう。あと、歴史学でどこまで調べがついているのかは知らないが、実際の江戸時代の地味な「忍び」の実態を紹介する、というのもありだろう。そういう資料や研究があればいいのだが・・・。
あと、これは僕の思いつきだが、戦場という活躍の場をなくして、却って思想的に先鋭化した武士道と同じように、「忍びの道」も江戸時代に観念的になり、もと「忍び」の芸人たちが脚色したイメージと相まって、後の立川文庫に連なるイメージが形成されたのではないか、と思った。

ともかく、これで学部ゼミは終了。皆さん、一年間ご苦労様。楽しい発表を聞かせてくれてありがとう。

その後労をねぎらうべく、飲み会に突入。でも、明日の補講や明後日からのテストに備えてか、集まりはいまいち。僕としては懐が痛まなくて助かったけど(笑)。今日のコンパ参加者は発表者のM田さん、C田君、T田君、I居君、K俣さんの五名。大学近くの「KOYAJI」という安めの居酒屋で(学生諸君が気を遣ってくれたのか、ここになった)3時間ほど粘る。

あとは10日後のレポート提出だ。みんな良いレポート書いてね。
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代替案が見つからないとき 

今日の発表者はK藤さん。彼女のテーマは、「B.R.アンベードカルの「不可触民」解放と「新仏教」運動」という渋いもの。アウト・カーストに生まれながら刻苦勉励して独立後のインド共和国の初代法務大臣になったアンベードカルの名は日本でも広く知られているが、彼女はアンベードカルの人生と、彼が最晩年に「差別的」なヒンドゥー教を捨て、仏教に改宗し、彼に付き従う人々が多く出たことを中心にして発表してくれた。
で、まず彼女が非常に丁寧に調べ物をしていることに感心。特に、カースト制度(ヴァルナ・ジャーティ制)について、ルイ・デュモンまで引用してきたのには、インド人もびっくり、というのは嘘だが、感心した(デュモンの本は非常に浩瀚なものなので・・・)。
僕も彼女の発表で教えてもらったのだが、我々日本人が普通知っているつもりの「カースト制度」というのは、19世紀以降のイギリスの支配の中から誕生した面が意外に強いということ(イギリスから入ってきた近代法体系と、マヌ法典など古法典の「読替(=伝統の創造)」のミックスが不可触民への差別を隠蔽してしまったことも近年での研究では指摘されていて、興味深かった)や、ガンディーとアンベードカルの対立など、興味深い論点が多々あった。また、アンベードカルの意志を継ぐ形で、新仏教運動のリーダーをしている日本人がいるということも面白かった。

あと、彼女の指摘に膝を打ったのは、「アンベードカルは仏教を選択したが、それは一種の「戦略的本質主義」なのでは」というものだった。つまり、アンベードカルは自分たちを徹底的に差別するヒンドゥーの伝統を「本質的に悪であり不道徳なもの」と規定し、その対蹠物として仏教を措定して改宗したのではないか、ということである。なるほどなあ、と思った。

コメントでT田さんが言っていたが、「何でこんなに自分たちを差別するヒンドゥー教を早く捨てなかったのか」という疑問は、第三者からは必ずと言っていいほど出る疑問だが(この質問は「何であんなひどい男とすぐに別れないの」というのと似ている)、僕が思うに、有効な代替物 alternativeがない場合は、その差別構造から逃れられず、益々その中にのめり込むことがありえるだろう。例えば仏教や、キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、女性差別的な言葉に溢れ、事実女性を差別してきたのは歴史が教えるところだが、それなのに、その時代の女性たちは自分の信仰を捨てようとはせず、却って熱心に信仰にのめり込んだ。これは、その時代に有効な「代替物」がなければ、結局はその中で「救い」を求めるしかないことを示していよう。客観的には差別され、苦しまされている状況だろうが、「内部」の人間には、それはなかなか見えないのだ。

あと、彼女の発表を聞きながら思い出したのは、日本の事例である。まず、日本の被差別部落問題。これは勿論アンベードカルの出身からの自然な発想だが、確か昔ゼミで色んな史料を読まされたとき、明治初期に学制が布かれたとき「部落の連中と一緒に机を並べられるか」というような形で暴動や騒ぎが起こった、というのを読んだ記憶がある(確か、岩波の日本近代思想大系の『差別の諸相』の巻だったかな)。この暴動なんかは、アンベードカルたちが味わったものと変わるところがない。
あと、アンベードカルは藩王の特別奨学金で留学したという話。これは、藩王国で権勢を誇っていたバラモン階級を牽制するために藩王が身分が下でも実力のある人材を育てて登用しようとしたもので、これなんか幕末の状況と似ていると思った。

ともかく、骨太な発表をしてくれたK藤さん、ご苦労様。

これから読む卒論 

一昨日、とりあえず皆さん卒論を提出してくれたわけですが、これから読んで、ところどころに「ツッコミ」を入れねばなりません。
これから僕が読む卒論の題目一覧はこちら。

・「知里幸恵―『アイヌ神謡集』までの道程とその受容」
・「越境する売春婦の現実―日本における売買春の実態と支援団体の取り組み」
・「西欧中世の貧民救済―中世盛期以降フィレンツェの場合」
・「食育基本法制定と小学校における実践」
・「摂食障害の増加と痩せを求める社会風潮の影響」
・「現在のスクールカウンセラー像」
・「現代におけるハリストス正教会の女性信者たち」
・「若者支援と若年労働問題」

「どーしろっちゅうんじゃ」というバラバラさ加減ですね。僕の場合、毎年のことですが。まあ、知識が増えるし、僕の出身の宗教学科でも「宗教」ということだけが共通しているだけで全然判らないみんなの発表を聞いて過ごしていたから、こういう環境には慣れているんだけど。

これから一つ目を読みます・・・。実は指導の過程で全員のを一度は目を通しているので、大体話の流れは判っています。

声明について 

今日は年明けはじめのゼミ。4年生は卒論を提出してぐったり。
発表者は3年生のC田くん。彼の発表テーマは仏教音楽の「声明」だ。まあ、渋い題材ですよね。宗教には音楽が付きものだが、実は、日本人はこの声明をほとんど知らないのではないか?ご多分に漏れず、僕もほとんど知りません。

彼の発表をまとめると、声明は天台系と真言系に別れ、そののち浄土系が加わり、これらが主流をなしているのだそう。
彼は声明のCDを持ってきて、僕たちに聞かせてくれたが(音楽を題材とする発表では、僕はこういうパフォーマンスを要求している)、天台系はゆっくり、真言系はマントラを繰り返してやる声明などがリズミカルで、けっこう違うものだと判る。
宗教音楽で、男声といえばグレゴリオ聖歌かな、というくらいの発送しかなかった僕だが、この発表で、コメンテーターのK山さんから「グレゴリオ聖歌」も「声明」も、ネウマ譜と呼ばれる楽譜の書き方なのだと教えられる。この言葉は初めて知りました。勉強になるなあ。
今回の発表は、こういう言い方をしたら申し訳ないけど、とりあえず今のところ調べたことを並べた感じで、まだC田君の見解が挟み込めていなかったので、レポートの際は頼むよ、と要求して今日のゼミは終了。

フロッピー使用禁止令 

今日は卒論の提出日。下で4年生がわらわら動いているところだ。もう、最後の最後までなあ・・・。

で、今回決めようと思ったのは、

フロッピー使用禁止

ということ。
実は、昨日K島さんがフロッピーが読み取れない、ということで大変な騒ぎとなったのだ。
フロッピーは壊れやすい危険なものなのだから、複数の場所に保存しておけと言ったのに・・・(大学の共同研究室のコンピュータのハードディスクに一時入れておけとも言った)。
最近のPCではそもそもフロッピードライヴがないものが普通となっている。

というわけで、これを読んでいる皆さん、もうフロッピーディスクは止めて、USBに突き刺すスティック型のメモリを使用してください。数千円で、フロッピーディスク100枚分の容量がありますし、安全です。
というわけで、勝手ながら、川瀬ゼミでは今後「フロッピーディスク禁止令」を出します。ファイルを提出するときは、メール及びUSBメモリを用いること。

注は思いやり 

今日から大学は本格的に仕事始め。まだ授業はないが、会議が二つあったので、朝から出勤。

そして、学生からは、年賀状代わりの書きかけの卒論がドドドと届く。正月三が日、駅伝見ながらゆっくりしたいと思ったのに届くもんだから、ついつい読んで朱を入れる(I藤さんと、K島さん、君たちだ)。
今日も二つ届いて(O智さんとO合さん)、現在チェック中。

先ほどの夕方はK島さんを呼び出して朱入れした原稿を渡して、ちょっとお説教。というのも、「注」がなっていなかったからだ。本のタイトルを本文に入れ、

○○の『●●』では「××」と言っている



というような書き方をして、そこに注も付けていなかったので(要するにページが判らない)、「これは非常に不親切な書き方である、君が悪意がないのは判っているが、これは良くない」とお説教したわけだ。
以前内田樹先生も言っていたが、注は「思いやり」なのである。以前コピーしておいた日記から抜粋すると、

引用出典を明記せよ、ということを学生に繰り返し教えるのだが、なかなかその意味が分からないらしい。
 巻末に「参考文献」というふうにまとめて列挙してあって、「あちこちからちょっとずつつまみ食い的に引用してます」と言って、しらっとしている。
 あのね・・・君は「君の論文を読む人の身」になったことがある?
 君の論文の中に、非常に興味深いデータがあったとしよう。なんでもいいや、例えば、「心理学者である山田金太郎博士の最近の研究によれば・・・」というような文があるとする。
 それをみて、「あれ。『山田金太郎』って、あの金チャンのことかな。あたしの初恋の・・・、金チャン、いまどうしてるんだろ?」と思った読者がいたとする。(花ちゃん、ね)でも、君の論文では「参考文献」として30冊の本の題名がどたっと並べてあるだけだ。どの本のどの頁を読めば金チャンの知見や近著を知れるか、花ちゃんにはまるで分からない。
 だから、参考文献リストにあった本を全部買うか借りるかして、一冊ずつはじめから終わりまで読むほかに調べる手だてがない。たぶん、その作業には数週間か数ヶ月かかるだろう。(おまけに、君が山田博士のコメントを読んだのは新聞記事かなんかで、それは参考文献にさえ挙がっていなかったりする)
 こういうのって不親切だと思わないか?
 君が脚注をつけて、引用出典の頁数を示しておけば、ほとんどその日のうちに金チャンの近況は花ちゃんの知るところとなる。
 これだって花ちゃんへのささやかだけれど「贈り物」になるだろう?
 そういうことだよ、学術性というのは。
 それを科学の用語で言えば「追試可能性」というのだ。
 君が使ったデータとそのまま同じものが「誰にでもすぐアクセスできるように」しておいてあげること。
 それが苦労してデータを取ったひとが「あとから追試する研究者」のために贈ってあげることのできる最良のプレゼントの一つだ。(2003年2月11日)



もう、注の意味はここに言い尽くされている。
卒論及び修論を書く諸君は、この言葉を拳々服膺してください。

新年から説教臭くて済みません。
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