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ジェンダー論の基礎と日常感覚 

今日は学部ゼミの第一回。
今日読んだテキストは

江原由美子「ジェンダーと社会理論」
蔦森樹「ジェンダー化された身体を超えて」(ともに『ジェンダーの社会学』岩波書店、1995)

の2本。江原論文を読んで、ジェンダー研究史を大掴みに掴んでもらい、蔦森論文で、「異性装」や「オカマ」「ホモセクシュアル」「性は二分化されたものじゃないんだよ」というような基礎概念を勉強してもらおうと思い、セレクト。
まず、要約レジュメ担当のK藤さんが精緻なレジュメを作ってきてくれた。それを受けてK本さんがコメントをしたのだが、このK本さんのコメントが非常に問題提起的で面白かった。彼女が僕の授業に来たのは初めてだったので、一体どんな感じかなあ、と思っていたのだが、安心どころが期待値以上でした。
後半は自由討論になるのだが、さすがに、「ジェンダー」というのは身近な話題なので、自分の生活感覚から様々な意見が飛び出る。例えば、「講読している女性ファッション誌によって、その女性の性格付けがなされる」とか、「スーパーでバイトしているんですけど、深夜はやはり男子が勤務するんですよね。これもジェンダー?」とか「私のお兄ちゃんが外国に行ったとき、ホモの黒人にやたらもてた(笑)。東洋人の小柄なのは可愛いと見なされるようです」とか、幅広く話題を提供してくれた。そういう「日常感覚」からスタートするのは重要だけど、それをどうやって「一般論」に止揚するか、というのが、大袈裟に言うと「学問」(特に社会学というのはそういう営みだ)です。
しかし、そういう生活感覚だけでもなく、コメンテーターのK本さんは「『女流』という言葉の問題性」とか「家父長的な概念が、第三世界の貧困と関係あるのでは(長男が産まれるまで産み続けるとか)」「社会構造の男性中心主義が世界をダメにしているのでは」とか、けっこうラディカル・フェミニズムっぽいことまで発言してくれて、司会者としては楽しく議論できた。学問の世界における普遍的言語=男性言語の問題まで飛び出して、ちょっとびっくり。ほとんどショシャーナ・フェルマンの議論だ(『女が読むとき、女が書くとき』)。
ともかく、第一回目としては上出来でした。参加者も、M原君とO寺君と、男性が二人加わってくれたし(笑)。
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ここはどこの女子大ですか? 

今日が、今年度初の学部ゼミの日。
人数は、予想より一人多い15名。まあ、想定内、というところだが、驚いたのが、全員女性だったということ。これはさすがに想定外。こんな体験は、初めて非常勤講師として働いた東京女子大学以来(当たり前)だ。

テーマは「日本近代のジェンダー及びセクシュアリティ」。これは、僕自身のスケベ心研究関心が、各宗教教団の「家族観」「男女観」「植民地観」など、その時代のいわゆる「眼差し」にシフトしていて、このゼミもその地均し(明治から大正期のメインストリームを押さえておきたくなった)のつもりで始めたのだが、僕一人が男を代表するわけにはいかないしなあ。やれやれ。

ともかく、無事に船出できたようなので、一安心。
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