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純愛をよしとする心 

今日も川村邦光先生の本の続きで、第三章「性欲の時代」というところを読んだ。

性家族の誕生 / 川村 邦光

田山花袋の『布団』を代表例として、「性欲」そのものを、ある意味露悪的に描く自然主義文学の流れと、それに伴うセクシュアリティの変容がテーマの章だった。もっと言うと、性を隠蔽する「聖家族=性家族」の誕生という、この書を貫くテーマが書かれていた章でもあった。

『布団』もそうなのだが、基本的に「霊肉二元論」の枠組みが物語の中にビルトインされており、「性欲」は基本的に下等なものとして貶められていくのだが、これは現代の我々にとっても他人事ではない。
議論では「『セカチュー』を楽しんでしまう現在の我々も、霊>肉という不等式が強固に脳味噌に刻み込まれているのではないか」という意見も出た(というか、僕が言っちゃったんだけど)。

続いて韓流ブームなど「純愛」ドラマがもてはやされるのはなぜか、売買春問題の根っこにある「性欲は醜いもの」という思いこみの源泉はどこか等が話し合われ、僕も勢いで「キモメン」の非モテとしてのニーチェ(笑)などを口走る(哲学関係者に怒られそうだな)。

売買春問題については、与謝野晶子・平塚らいてう・山川菊栄の論争でも話し合う予定なので、今日は早めに終了(といっても10分オーヴァーだが)。
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「同性愛」の行方 

今日は川村先生の本の第二章「文明開化のセクソロジー」を読む。
僕から見ても内容は結構難しく、要約担当のO田さんも苦慮して
いたようだ。僕なりに簡単に要約すれば、文明開化時に流入した西洋の知識体系で、性にまつわる「科学的」な言説、すなわちセクソロジーは、近世までの日本の言説とどこと同じで、どこが違ったのか、という問題設定の章だったと言えようか。思わず慌てて、ヴィクトリア時代のセクソロジーに関する研究書を買ったが、読む時間がなかった。

女性を捏造した男たち―ヴィクトリア時代の性差の科学
女性を捏造した男たち―ヴィクトリア時代の性差の科学
富山 太佳夫、シンシア・イーグル ラセット 他 (1994/05)
工作舎

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つまり、「男=理性的=科学的=文明」「女=感情的=非科学的=馴致されるべき野生」という構図が「科学的」にがっちり構築されたのがこの時代である、ということだろう。

コメントのO澤さんの問題提起から、なぜか話題は「同性愛」の話に。この時代、セクソロジーにおいて同性愛は「異常」のレッテルを貼られ、病理的なものとしてカテゴライズされたが、日本において、男性の同性愛の伝統は良くも悪くも声高に語られるが、女性同性愛については、それこそ西洋並みに「ないもの」とされてきたのではないか、と思いつきをべらべら喋る。だって、「稚児草子」とか、衆道ものはあっても、江戸時代の「百合」とかは思いつきませんものね(もしあるなら、情報望む)。まずは西洋のレズビアニズムの流れを押さえたいものです。

レスビアンの歴史
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リリアン フェダマン (1996/11)
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養生論とか身体観とか 

さて、今日からゼミは川村邦光先生の『性家族の誕生』(ちくま学芸文庫、2004)を読むこととなった。毎週一章ずつ丁寧に読んでいくことにし、今日は序章と第一章。
序章が「透谷、処女を論ず」、第一章が「色情のエチカ」というタイトル。今日は突っ込まなかったけど「エチカ」っていう言葉に込められた意味、学生諸君は果たしてどれだけ意識していたであろうか。実は僕もよく判らないのだが(笑)。
序章は、有名な北村透谷の「処女論」を皮切りに、近代日本において(フーコーが『性の歴史』でいう如く)性に対する過剰な言説がどのように生まれてきたのかを見る、という著者自身の問題設定が書かれてある。実はこのあたり、「フーコーのいっている意味が判りません」と突っ込まれて、僕もあり合わせの知識を総動員して、適当に喋ってしまったけど(ブリコラージュってやつ?←嘘)、自信なし。ちゃんと読まなきゃな、でも難しいしなあ、読む気失せるなあ(エンドレス)、という負のサイクルが現代思想系には付きまといがち。
第一章では、江戸時代の養生を説いた錦絵の解説から、貝原益軒の「養生訓」、近松門左衛門世界における「色」「恋」など、江戸時代における性の諸相が描かれている。
まだ今日ははじめだったので、なかなか議論が深まらなかったが、僕としては、あまりセクハラになるような言動は慎まねば、と気を引き締める結果となった(笑)。どうしてもその手の言葉を口にせざるを得なくなるからな。
研究室に帰り、ついつい房中術の本などを手に取る僕でした(土屋英明『道教の房中術』文春新書、2003年)。

次数を上げる 

今日のゼミは、加藤まどか先生と、佐伯順子先生の論文を読んで議論(加藤「「きれいな体」の快楽―女性誌が編み上げる女性身体」『ジェンダーの社会学』岩波書店と、佐伯「「恋愛」の前近代・近代・脱近代」『セクシュアリティの社会学』)。
前者は「痩せ」「ファッション」をめぐる視線を女性誌を中心に解析したもので、後者は明治以降のいわゆる「恋愛の発明」についてのもの。

やはりこういう話題だと、女性がほとんどを占める我がゼミでは食い付きはいいけど、どうしても「私はこう思う」「私はこうだった」というような「自分語り」になりがちで、もう一つ次数を上げての抽象的議論(学問とはそういう営みのことなんだけど)が却って難しいと感じた。そっちへ誘導したかったんだけど、僕の力量不足で、数名の「語り」に流されて、僕も釣られて色々喋っちゃったなあ(数少ない男性として「男の視線」について解説せざるを得なくなった、というのもあるが)。

女性誌をめぐっての議論で面白かったのは「同性」すなわち女性の視線という問題だ。男性の視線を気にして、男性受けする化粧や衣裳を着る、というのは判りやすいが、事態はそんなに単純ではない。男性の視線よりも、実は同性の承認を伴った視線というのが決定的に重要である、という加藤先生の指摘に、皆頷くところがあった。たとえば、今流行のエビちゃんにしても、それを支持しているのは、いうまでもなく大半が女性であろう。「エロ可愛い」と称される某歌手にしても、女性の支持なくして、あそこまで登り詰めはしない。

最後には、「恋愛の非日常性」とか「風俗業界は「色道」の復権か?」というような議論から、ホストやキャバクラなどのメカニズムの話に突入。僕個人は風俗やキャバクラなどには全く興味がないのだが、それは恐らく、そこでの関係性を「偽り」と見る生真面目な意識が僕の根っこにあるからだろうと結論。要するに僕は「粋」ではないのだ。九鬼周造が、祇園通いから「いきの構造」を考えたのは伊達ではないって事を適当に喋り倒す(大昔途中で読むのを挫折したくせに・・・)。
学生のなかからも「彼氏や家族が風俗通いしていたら、絶対イヤ」という意見が出て、我々がまさに北村透谷の正しい「継承者」であることを図らずも証明してしまっていた(笑)。他にも「ホストクラブでちやほやしてもらって、自己肯定感を得るのはキャバクラと同じかも」だとか「不倫はどう考えるべきか」等にも話題が広がったが、時間切れで終了。

来週からは本格的に、近代日本のセクシュアリティのありかたを考えるゼミになる。

「女らしさ」に寄りかかる 

今日のゼミでは、上野千鶴子先生と牟田和恵先生の論文を読み議論。
上野先生のは、セクシュアリティ研究の歴史的な流れの概括めいたもの、牟田先生のは、近代日本における「国家建設」と一種の「共犯関係」を結んでしまった一夫一妻制(そしてその裏の公娼制)などに言及したもの、とまとめられるかと思う。

今日の議論で面白かったのは、まずO澤さんが提出した問題。彼女は自他共に認めるサッカーフリークなのだが、イタリアのチャリティで、サッカー選手が「ヌード(まあ、大事なところはボールで隠してあったりするらしいのだが)」になっているカレンダーを買ったそうなのだが、これって一体・・・という問題。それを受けてK本さんが「西洋絵画と日本画の違い」、すなわち肉体をどう捉えるかというような問題提起をなし、僕も「ヌード」をどのような「コード」で読み解くのか、どのようなコードで読み解くと「イヤらしい」ものとして見ることになるのか、というように話題を振ってみた。
コメンテーターのTさんも、カナダで買ってきた日本の観光ガイドを持ってきて、ここで描かれている「日本人の性」は、はたして妥当なものか、どのような眼差しが介在しているのか、というコメントをしてくれた。
今回の議論を聞きながら思ったのは(牟田先生の論文ともつながる)、我々は近年になってようやく家父長的なくびきから逃れ性を自由に謳歌することができるようになった、という「神話」があるわけだが、実は、それほど「古くさい」道徳からは逃れられていない、という身も蓋もない事実だ。コメントでTさんが韓国映画の『猟奇的な彼女(チョン・ジヒョンちゃんが最高です)』を取り上げ、主人公の「女らしくない振る舞い」が、実は「女らしさ」というものが世の中で強固にあるからこそ「効果的」であるというメカニズムに則っていることを指摘したが、他にも、いわゆる「女の芸人」が「女を捨てている」ことが芸になる、という構造そのものが「女らしさ」というくびきの強靱さを逆に証明してしまった言えるのではないか、ということを彼女たちの議論を聞きながら思った。まあ、この程度の分析は今やジェンダー論ではある意味常識だろうが、「逸脱的な振る舞い」が、実は既存の構造にひびを入れるどころか、ますます既存の構造を強化してしまうという皮肉は、やはり考えねばならないことだろうと思う。

というわけで、今日も僕が喋り過ぎちゃいました。反省。
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