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貞操について 

今日から、与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊栄など、大正時代に活躍した女性論客の文章を実際に読んでみるゼミに突入。
今日のお題は「貞操論争(貞操について)」。主に晶子とらいてうの論説を読んで、恰好付けるならばその現代にまで通じる「アクチュアリティ」を発掘する作業を今週から始めたわけだ。

晶子もらいてうも、あの時代の中ではある意味例外的に「恋愛至上主義」を貫けた人生を送った、ということに留意しなければならないが(その辺りが彼女たちの論説が無意識の「強者の理論」になっていることは僕も指摘し、みんなも頷いた)、「男には性的な縛りやサンクションがないのに、女はそればっかり」という性倫理のインバランス、ダブルスタンダード(自分に甘く、他人に厳しい)が現在も実はこっそり残ってはいないか、という問題提起がなされた。

なお、今回読んだ晶子の「女らしさとは何か」(1921)という論説は、現在のジェンダーフリーバッシング、すなわちバックラッシュに対抗するときにも使えそうな言葉が目白押し。その辺りも「今日性」「アクチュアリティ」と言えたかと思う。

本当は伊藤野枝や生田花世、原田皐月の間の「貞操論争」も視野に入れたかったのだが、そこまではちょっと余裕がなかった(僕自身は予習はしましたが)。
来週以降も、売買春問題や、母性保護論争の文章を読んでいくので、まあ同じ問題系の廻りをうろうろすることになるであろうということで、今日は終わり。

その後、僕自身が腹が減っており、夜殊勝に勉強する気になれなかったので、残って談笑していたM原くん、K藤さん、K川さん、U村君を誘って、一杯軽く焼鳥屋に飲みに行く。月曜だから空いているかと思ったら、僕たちが入った直後にお店は満杯に。隣では、農学部の大規模なコンパが開催されており、自分のことを棚に上げ「月曜からこの人数で飲むか」などと呆れる(笑)。
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いまだに根強いの?母性愛神話は 

さて、今日で川村邦光先生の『性家族の誕生』もラスト。
今日は「戦争と母性愛の時代」という章で、戦時下の婦人雑誌で、どのような「イコン」が戦意高揚のために描かれていたか、どのような図像が聖なる「イコン」とされていたのかを検証したもの。このような研究は、若桑みどり先生の『戦争が作る女性像』(ちくま学芸文庫、2000年)が必読書だが、川村先生の研究もこの若桑先生の著書を非常に参考にしており、そのあと、この章の発展版ともいえる論文をいくつか書いておられる(川村邦光「靖国と女―従軍看護婦と“九段の母”をめぐって」、『戦死者の行方』青弓社、2003年)。
今回のゼミで僕がこだわったのは、「銃後の母」「靖国の母」そして「出征する息子を見送る母」というイコンは多数存在するが、「夫を見送る新妻」などは本当に少なく(与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」はこれだ)、「父と子の別れ」という図は全く見られない、という点だ。父は出征しているか、「企業戦士」として家に不在なのかな、などとも思ったが、ここまであからさまだとちょっと引っかかるものがある。「夫を見送る妻」というのは、ドラマティックすぎて、戦意高揚に結びつかないとは思うけど。

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戦死者のゆくえ―語りと表象から 戦死者のゆくえ―語りと表象から
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僕が今日の発表及びコメント聞きながら思いついたのは、「母性愛の神話って、メインカルチャーのみならず、サブカルチャーにも結構色濃く残存しているんじゃないの?」ということだ。で、僕が思いついた例が、岩崎宏美の「聖母(マドンナ)たちのララバイ」(笑)。あの歌って、そうですよねえ。学生たちに同意を求めたが、若い彼らはこの曲自体を知らなかった(笑)。失敗。
あとは、漫画版の『風の谷のナウシカ』。漫画版のナウシカについては、結構論じられているとは思うけど、瘴気を吸ったトルメキア兵を看病して胸にかき抱いたり、最後は巨神兵の「母」となったり・・・。

『ナウシカ』はもう一度読み返そう。

母性愛って・・・? 

川村先生の本も後半戦。今日は第5章「男らしさの病と女らしさの病」。
さて、今日のテーマは「男らしさ」「女らしさ」ということについて、近代日本ではどのような言説が積み重ねられていったか、というもの。僕なりに簡単にまとめると、女性雑誌の普及などによって、女性の身体をめぐるディスクール、とりわけ月経や子宮に関しての言説が繰り返し述べられ、「女らしさ」というものが身体性をもとに「構築」されていく過程と、それと並行して、「能動的な」男性の性のあり方が強調され「男らしさ」に男自身がある意味脅迫的に苛まれる過程を描いた章と言えるだろう。要約担当はT田さん、コメンテーターはOB澤さん。
僕のゼミは、自由にものが言える雰囲気で、いつも議論が白熱(?)するのは良いのですが、ちょっと今日はオシャケさん(仮名)が、ワールドカップモードの脳味噌で暴走気味だったかも(笑)。彼女、ところどころで的を射た発言をするだけに、惜しい。
議論は多岐にわたったが、僕なりに整理すれば「女は怖い、という言葉は、どういう点に向けられているか」とか、「母性愛や母性本能という言葉は使われるが、本能という言葉ではどんなものを想像するだろうか?」が中心だったかな?
「女は怖いね」と男が言うとき、男は自分が原因だとしても第三者的な態度を取れるし、「母性本能」というと、それは女性の身体にビルトインされている(しかも父性本能などという言葉はない)というイメージがどうしても喚起されるとか。でも、まとめとしては、確かK本さんの発言だったが「悪いのは全て女性(性)に帰せられる」という構造が問題、というところに帰着するだろう。
難しくて、僕も頭がこんがらがって(ついでに日本戦の行方も気になって)頭が回らなくて済まない。
今日はこんなところかな。

貞操・処女・女性専用車 

今日は第4章「性家族の肖像」を読む。要約担当はK川さん。
内容は、『青鞜』誌上で闘わされた「貞操」「処女」をめぐる論争と、「セクシャリティの支配権」を巡る問題についての考察とまとめられるだろう。
僕なりに簡単にまとめるなら、売買春という男の不貞と裏表の関係で、女性の「処女」「貞操」の価値が高められ、女のセクシュアリティが、ある意味それをいかに守るか、もしくはいかにして適切な時期に失うか、という問題へとスライドしていったことがまず描かれていた。このあたりに関してK本さんが「いわゆる「新しい女たち」が処女という(古いと思われる)価値を称揚した、というのが不思議である」との問題提起をなし、これには深く肯かされた。確かに「処女なんて古い価値観は、男が我々女を支配するための道具に過ぎない」なんていう言葉が聞かれても良さそうなもの。事実としては、そのような主張を孕みつつ「因習打破!」と叫んだ伊藤野枝などを見ると、一種の自由恋愛の主張が、放蕩者(敢えてこういう)の大杉栄のような男に良いように利用された悲劇が後に生じた、と見ることもできよう。
もう一つ考えるべきは(これもK本さんの問題提起だったが)、貞操を守った女/守れなかった女の二分法は、女の中でヒエラルキーを作ってしまったのではないか、ということ。これは現代フェミニズムの問題意識ともダイレクトに繋がる重たい問題だ。それを受けてシャケ(今回彼女はあだ名で記す)が、「平塚らいてうとか安田皐月とか、青鞜のお嬢様は、足元が既にきちんとして道も舗装されていた状態の人で、セクハラされて涙を飲んだ生田花世のような人は、その足元がぬかるみで、道もまだできていなかったのではないか(話が合うわけない)」とこれまた卓抜なアナロジーで整理してくれた。
コメントのM井さんからの問題提起から発展して、T野さんから「女性専用車はセカンドレイプ的なものの言い方を保証してしまってはいないか(意訳)」というような問題提起もなされ、みんな考え込んでしまう。僕は、思いつきで、「ヴァルネラビリティ(脆弱性)」と倫理の関係などを思いつくまま喋り、性犯罪はこのヴァルネラビリティを侵犯するものなのではないか、などと話す。
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