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前期ゼミ終了!! 

今日で前期ゼミはラスト。
今日読んだのは、相も変わらず与謝野晶子・平塚らいてう・山川菊栄の論争。

晶子:「平塚さんと私の論争」(1918)、「平塚・山川・山田三女史に答う」(1918)
らいてう:「いま一度母性保護問題について与謝野晶子氏に寄す」(1918)
菊栄:「自由社会における妻と母」(1920)



要約担当がK本さん、コメンテーターがM原君。
内容は多岐にわたるが、「母性保護論争」ということで、「子供を産む女性への手当て」の問題、「女性の労働条件改善」の問題、「女を、家事をして子供を産む道具としてしか見ない家父長制」への異議申し立てなど、約90年後の現在の我々と同じような問題を既に述べているところに敬服しつつ、「我々はどこまで進歩したんだろう」と思わざるを得ない。ホント、同じところをグルグル回っているね。例えば、夫にどれだけ家事をやらせるのかという問題なら、現在だってよくよく考えれば、家電のスウィッチすら押すのはいつも「妻」の役割だったりしないだろうか、なんてね(育児に関してはいうまでもなし)。

学生からの問題提起で面白かったのは、「なぜ娘は子どもを産んだあとに、自分の実家に行くのか」ということ。「母と娘」の紐帯も大きな問題だし、自分の母親なら遠慮せずに子ども(母にとっては孫)を預けられるというメンタリティの「元」は一体何なのだろうか、という話題でひとしきり盛り上がる。「嫁姑問題(夫の母にはやはり遠慮してしまう)」もさることながら、「子育ては女のもの」つまり「女の筋(母方の女の筋)」が無意識的に重視されるのかも知れない、などと話し合う。

大学はこれからテスト期間に入るので、そのあと、夏休みの最初に初めてのゼミコンパを行う予定。
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個人発表原題、出揃う 

僕のゼミは後期、一人一時間の個人発表をしてもらうのだが、その原題が出揃った(今日が締め切り日だったのだ)。
あとは各自、夏休み中に煮詰めてもらうだけです。健闘を祈る。

2006年度ゼミ 後期個人発表題目(7月21日現在)
「オタク、オタク学」
「サッカーにおける差別について」
「少年マンガにおけるヒロインの位置付けと変遷」
「京女~ブランド化された県民性その成り立ちと変遷~」
「マスメディアと私たちのこれから―『手法』という爆弾の扱い方」
「女人禁制」
「女性と労働─男女雇用機会均等法施行~現在にかけて」
「近代日本における家族意識」
「B.R.アンベードカルの不可触民解放 および新仏教運動について」
「ケベックについて」
「Graded Direct Method と英語教育」
「近代西欧社会における消費意識の形成」
「宮崎アニメの女性像」
「シャーロック・ホームズにおける言語と社会」
「現代バリ島民のヒンドゥー教宗教意識」
「ニート言説から見る若年層批判の仕組み」

見事にバラバラ。でも、今年は僕の最近の性向に影響されてか、「女性」問題と「サブカル」に手を出そうとする学生さんが多いかな。
こんなの、全員をきちんと指導できるわけないので、他の先生にもヘルプを頼まなければ・・・。

「母親になる」といふこと 

今日のテーマは、与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊栄のあいだでの「母性保護論争」の第一回目。読んだ論説は以下の通り。

晶子:「母性偏重を排す」(1916)
らいてう:「母性の主張について」(1916)、「母性保護の主張は依頼主義にあらず」(1918)、
菊栄:「母性保護と経済的独立」(1918)



各人の主張を僕が大雑把且つ強引にまとめるなら、晶子の主張は「子供を産むことは「お上」とは関係なし。経済的な独立を勝ち得た男女が親になればそれでよし」というような論調、らいてうは「母になるということはそれで一つの社会参加(社会貢献)なのだから、行政がそれを保護するのは当然。特に私生児に対して行わねば」というもの、そして菊栄は「二人の主張、それぞれ良いところがあるんだけど、社会構造を変革しない限り、弥縫策で終わる」というもの。

様々な論点から論じられる論説だが、僕としては現在にも通じるものを論じて欲しい、ということで

1)「育児は女性」という固定観念の強さ(「三歳児神話」をコメンテーターのO田さんが指摘してくれた)
2)「男並みに頑張れ」という実力主義と「女らしさも一つの価値として認めよ」という二つの主張が絡まりながら進んできた日本のフェミニズム

を中心にみんなで議論してもらった。

僕は付け足しとして、「女同士の間の溝」という問題提起をした。例として、育休・産休を取ろうとした女性教員が上司に当たる女性教員から「私は○週間で復帰しました」と、暗に育休切り上げを示唆された、というもの。この例を挙げたら、今日の要約担当のI田さんから「私の母も公立学校の教師ですが、私を産んだときに全く同じようなことを言われたそうだ」との話を聞き、驚く。20年前は、公立学校ですらそうだったんだなあ。

来週はこのゼミは一旦お休み。再来週が前期の最後。最後までなんとか乗り切れそうだ。

売買春問題(論争)について 

今日は、主に「売買春問題」についての論説を読み、現代にも通じる問題を考察した。読んだ論説は以下の通り。

晶子:「私娼の撲滅について」(1916)
らいてう:「売笑婦問題について」(1918)、「花柳病男子結婚制限法制定に関する請願運動」(1920)、「花柳病と善種学的結婚制限法」(1920)
菊栄:「日本婦人の社会事業について伊藤野枝氏に与う」(1916)、「現代社会と売春婦」(1916)

要約担当のO澤さんは、伊藤野枝の論説まで読んで(僕が貸したんだけど)まとめてくれた。
大雑把な見取り図としては、与謝野晶子と伊藤野枝が「男の性欲は女性よりも過剰なものなのだから、売買春は必要悪。ただ、その害悪を最小限にしなければいけない(晶子は未婚男子に限る、と言っている)」という立場、平塚らいてうと山川菊栄は、「売買春はなくすべき(らいてうは法的規制によって、社会主義者たる菊栄は経済的不平等の是正によって、というニュアンスの違いがあるが)」という感じで分けられると思う。

F原さんのコメントから、「主婦と愛人は違いがあるのか」「売春婦とグラビアアイドル(もしくはモデル)って違いがあるのか」「ホストはどう考えたらいいのか」というような、昔からある意味変わらぬ論争がゼミ内でも激発。こういう売買春を巡る問題って、同じ処をグルグル回っちゃうところがどうしても出てきちゃう。ゼミの議論だとなおさらだ。
お金の方向(男から女の一方通行)の問題性なども指摘された(欲望のベクトル、ということでしょう。これがグラビアアイドルとモデルの違いではないか、という意見も出た)。

僕個人は、売春についての考え方で一番影響を受けたのは実は内田樹先生の意見だ(フェミニズムについての評価は違いますけど)。要するに内田先生の考えを僕なりに要約すれば、「いくら売春する側が自立性を主張しても、買春という行為自体がその尊厳を踏みにじることによって成立しているから(普通の商行為よりも権力関係を拡大しているのが売買春だから)、その主張は通らないであろう」ということだと思う。

性の商品化には「職業訓練」が必要とされません。(むしろ売春婦の低年齢化が示すように、「職業訓練されていないこと」がこのマーケットでは市場価値を形成したりします。)

性の商品化は「顧客のレスペクト」を得るためのものではありません。むしろ、「顧客によっておのれの人間的威信をふみにじられること」の対価としていくばくかのお金を受け取るシステムです。

私は買売春の経験がありませんので、そこでどのような快楽が売り買いされているか知りませんが、村上龍を読む限り(私の性風俗に関する情報源はほとんどこの人なんですよね、そういえば。私の性意識に歪みがあるとすれば、それは村上龍さんのせいです)、主力商品は、身体的快楽そのものではなく、他人を自分の快楽に奉仕する「道具」にする、という「主人と奴隷ゲーム」にかなり傾いているように思われます。(2001年3月28日



最後には、上記のようなことを僕なりにアレンジした言葉と、「援助交際少女の出現は、オヤジの秩序を脅かしたからバッシングされた」という宮台真司さん流の台詞で締めた(この二人の意見を同時に言うところが我ながら無茶だと思うが)。
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