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「構築」された宗教 

今日はM原君の発表。タイトルは「現代におけるバリ・ヒンドゥー教徒の宗教意識」というもの。M原君は去年インドネシアに留学しており、その経験をもとにこのテーマで卒論を書く予定。

まず、インドネシア政府の宗教政策を掻い摘んで言うと、基本的にイスラームがマジョリティのこの国は、一種の「公認宗教」制度を取っている。即ち、「唯一神とそれに見合った教義、経典、預言者などを保持する宗教」を「国定の宗教(agama)」と呼び、それ以外の、例えば多神教的な民間信仰などはまとめて「俗信(kepercayaan)」というカテゴリーの中に入れられ、独立当初はバリのヒンドゥー教も「俗信」に入れられていた。そこで、バリのインテリ層(後に「パリサド」というグループとして統一され、現在も活動をしている)が、公認を得るためにバリ・ヒンドゥー教から呪術色を抜いたり、経典、教義の整備をしたり、一神教的な装いをする「啓蒙活動」を行い、1965年には晴れて公認宗教化し、現在では、その新たに構築された「バリ・ヒンドゥー教」の語彙でもって自分の信仰生活を民衆は語りつつも、実際にはその言葉と実践には乖離、齟齬がある、というのが今日の発表の眼目だったとまとめられようか。

有名なギアーツの理論なども借りつつ(って、そういうアドヴァイスをしたんだけど)、なかなかよくまとまっている発表だったが、せっかくフィールドワークをしてきた彼には、少しトリビアルなところを質問してしまう。実際「乖離」と「齟齬」が問題というなら、そういう日常世界でのトリビアルなところが大事になるはずだから。神も論文の要点も「細部」に宿るのだ。レジュメには載っていない細かいところを僕は集中的に質問したが、それなりに調べはついているようなので、卒論本文には是非書くようにと指導。
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Graded Direct Methodについて 

今日はS池さんの発表。
テーマは「Graded Direct Method(GDM)と英語教育」というもので、タイトルから判るとおり、言語学とか語学教育の分野の問題意識の発表だ(彼女はこれで卒論を書く予定)。勿論僕は、このあたりの問題については素人も良いところだが、実はちょっとだけ接点があるので、それを念頭に思い浮かべながら今日の発表を聞いていた(後述)。
GDMとは、要するにネイティブの教師が、媒介語(例えば日本語)を使わずに、段階的な単語や表現を英語のみで直接教えていくというもので、その効率性が評価されてきたものだという。よく使う単語を精選し(ただし頻度数frequencyで選ぶのではなく、意味の広がりを持つかどうかという有用性usefulnessという基準で選ばれる)、図なども用いながら、まさに「ベーシック・イングリッシュ」を教えていくというのだが、なるほど、と思うのと同時に、幾つかの疑問が浮かんだ。
この教え方は、例えばgiveとかtakeのような基礎語(作用詞operators)と、onとかoffとかの方位詞directivesとの組み合わせの、いわゆる英熟語を重視するのだが(確かに基礎的な言葉の組み合わせで、新たに憶えなくても済む)、これって非ネイティブには却って難しいのじゃなかろうか?そういう英熟語よりも、その意味を表す新たな単語一つを憶えた方が良いような気がするのだが(この辺の意見は、ちょっと言語学者の鈴木孝夫の受け売りが入っています)。
さて、僕がS池さんの発表をある意味懐かしく聞いたのは、僕が7年前に韓国でやっていた仕事が、「日本語教師」だったからだ(向こうの短大で一年間教えていました)。その時使用していた教科書は段階を考慮した(graded)ものだったかどうかは分からないが(まあ普通、語学の教科書は、簡単なものから複雑、抽象語になっていくものだが、単語の選定などに「段階制」やら「効率性」が考慮がされていたかは分からない)、「昨日金さんは何をしましたか?」と日本語だけで授業を進める、直接教諭法(direct method)だったのだ。これは、アジア各国で行われている日本語教育の普通の姿である(要するに、地元の言葉や英語の習熟度が問われない。ある意味植民地主義的なものだと思う)。
確かにこの直接教諭法で、目覚ましく伸びた学生さんもいた、と思う。僕のお蔭ではなく、勿論その学生さんの努力のたまものだが。しかし、その限界も痛感したのだ。そりゃそうですよね。僕の話す言葉が分からない人は、最初っから落ちこぼれるわけですから(「キョスニム、モルゲッタ~(先生、わかんない~)」ってよく言われました)。
というわけで、S池さんには、このGDMの長短をもっと調べて、それでもこの方法を採る価値があるかどうか、というのを検証していけば良いんじゃないか、と思う(指導のY口先生がどう仰有るかは分からないけど)。

宮崎アニメのヒロイン像 

今日は、Tさんの発表。タイトルは「宮崎アニメの女性―紅一点論の再考」というもの。タイトルから判るように、斎藤美奈子さんの名著『紅一点論』を足がかりとして、斎藤さんが検証したことをまとめて、それが本当に妥当なのか、と一つ一つ確認していく作業が、今日のTさんの発表の眼目だったと言えるだろう。

斎藤さんの秀逸なまとめによれば、元々アニメには「魔法少女」「紅の戦士」「悪の女王」という3パターンがあり、宮崎アニメのヒロインたちも、それぞれ要素をミックスさせながらも、この「文法」に従ったキャラクター造成がされているという(って事で良いんだよね、Tさん!)。
また宮崎アニメでは「男の子の国(科学立国、合理性や支配を重視)」「女の子の国(自然と共生する志向性)」という二つの世界が争うという構造があり、主人公(主にヒロイン)は「女の子の国」に所属し、面白いことに、敵方の「男の子の国」も、リーダーが女性だったりする(『未来少年コナン』のインダストリアのモンスリーや、『ナウシカ』のトルメキアの皇女クシャナを思い出せばいいだろう。あと『もののけ姫』のたたら場を仕切るエボシ御前もこの系統だ)。そして少年はどちらの世界にも属さず(どちらかというと「女の子の国」に荷担しているが)、第三国の人間として少女に協力するというスタイルが踏襲されているという。
まあ、斎藤さんの分析は、『コナン』におけるラナとモンスリーというキャラクターが、後々の宮崎アニメの「原型」となり、その性格が連綿と引き継がれているというものである。
Tさんも、この説得力のある分析を参考にするのは当然必要だし、正しいやり方なのだが、多少斎藤さんに今回の発表は引きずられすぎたきらいがあった。彼女も自分の意見を付け足そうと努力している形跡は見られるのだが、例えば斎藤さんが見せる「エコロジカル・フェミニズム」への違和感の表明なども、無意識のうちに、あたかも自分の意見のように取り入れてしまっているようなところが見られた。
今後は、コメントで言ったことだが、やはりもっと多くの研究文献を読んで、それをなんとか応用する方法を模索して欲しい。よく知られた単行本2,3冊程度で終わったように見られるのは、大変損なことだ(Tさん曰く、けっこう雑誌論文も調べて読んだと言っていたが、その成果が目に見える形で現れていなかった)。
あと、コメンテーターのK本さんの意見も、なかなか啓発的なところがあったので、Tさんはそのあたりをくんで、しっかり論文に活かすように。

学生自治会のホームページ 

今回は、ゼミではなく、大学全体に関わることを少し書きます。

皆さんも、京都府立大学が2008年度から独立行政法人化されるかも知れない、というのはどこかで聞いたことがあるかも知れません。でも、何が問題なのかということも、実はよく伝わってはいないかとも思います。

さて、うちの大学の学生自治会のホームページがあります(以下のURL)。そこでは、そういう不安も含めての学生の意見を集めたアンケート結果が掲載されています。
http://www.geocities.co.jp/kpu_zichi/
是非ご覧になって、自分でよく考えてみてください。

一教員からのお願いでした。

Beaver Hat from Canada 

今日の発表者はK川さん。
彼女は去年一年間カナダに語学留学をしており、そういう縁もあってか、今回毛皮交易を中心とした「カナダ史概説」のような発表をしてくれた。「概説」と僕は書いたが、実際調べたことを全部盛り込もうとして、300年以上に渡るタイムスパンのことに触れていたので、僕としてもびっくり。「並」を頼んだら「大盛りつゆだく」が出てきた感じ(笑)。まあ、悪い事じゃないけど、ちょっとそのせいで焦点がぼやけてしまったきらいはあるかな。

このエントリのタイトルはもちろん「カナダからの手紙」のもじりだが、入植開始時のカナダは、農業植民地というよりは、毛皮交易の場所として認知されていたそうで、フランス人もオランダ人、イギリス人も、インディアン(ネイティヴ・アメリカン、イヌイット)は「追放して倒すべき敵」ではなく「交易相手」として考えてられており(ビーヴァーの毛皮から作ったビーヴァー・ハットというのが流行ったそうだ)、そのせいでアメリカと違って、ヨーロッパ系男性と地元の女性という「通婚」も含めた「友好的」な関係があったというのは初耳で、非常に面白いと思った。

あと、毛皮交易時に使われた「通貨単位」がビーヴァーの皮(Made Beaverという)だったというのも笑った。面白いなあ。今日の発表は一体何メイドビーヴァーだったでしょうか(笑)。

あと、もう一つ面白いと思ったのは、ヨーロッパ系とインディアンの間に生まれた人々を「メイティ(メティス)」(metis,metisse)と呼び、彼らは「混血」として彼らのアイデンティティを構築したという話。しかも彼らは、現カナダの憲法で、先住民の一つとして数えられているのだ。このあたりは文化人類学的な興味をそそられますね(アメリカと、居留地reservation比較というのも有りだよな)。

アメリカ史を繙くと、常に白人に迫害されてきたインディアンという構図がすぐ浮かぶが(もちろんこれは間違いではなく、厳然たる事実である)、カナダにおいては、交易のパートナーという地位を保っていたため、イギリス政府の作った「ハドソン湾会社(HBC)」と、移民とメイティが作った「ノースウェスト会社(NWC)」が、互いにインディアンを取り込もうとして争ったりするのも興味深い現象だ(メイティがHBCを襲ったらしいし)。何か、ヤクザの抗争を思わすような感じだね。僕の脳味噌の中はまるでVシネマみたい・・・(ハド川翔とノス内力の争い、というと分かりやすいか。却って分かりにくいですね)。

今後は通婚などをもっとくわしく調べ、アメリカとの違いを強調し、まとめていって欲しいと思う。
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