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カウンセリング・マインドと教育 

えらく大仰なタイトルになったが(先週同様)、今日からゼミでは以下の本を読み始めている。いわゆる「心理学化社会」を理解するのにいい教科書だと思ったからだ。
自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実 自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
森 真一 (2000/02)
講談社

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最初から「マクドナルド化」とか「感情管理(ホックシールドからの流れだ)」など、それだけでお腹一杯になるような言葉が連発されて、学生の方も大変だが、これもゼミという修行の場、一所懸命知らない概念を憶えて、視野を広げていってね。

今日の議論の中心は、コメンテーターのF原さんの提起した「カウンセリング・マインドと教育」の関係だった。最近は、教職課程においてはもちろん、スクール・カウンセラーの存在、現役の教員もカウンセリングについての研修を受けるなど、「カウンセリング」が教育現場には溢れているわけだが、それがいかなる意味を持つのか、というのを改めて考えよう、ということでもある。僕個人は、けっこうカウンセリング・マインドで学生さんと対峙しているつもりだが(笑)、過剰なカウンセリングへの依存がよくないのは目に見えているし、「評価」を含む教育の現場でどれだけその真価を発揮できているのか、という問題提起だったと思う。
最後にA部君から「心理主義的な言葉で倫理とか説いている人っているんですか?」というような質問が来たので、つい林道義先生の名前を出してしまう(ユング研究者としての林先生は尊敬しているのだが・・・)。
来週以降も、けっこう話は盛り上がりそうだ(今日も4回生ばかりが暴走気味だったけど、沈黙よりはいい。H沖さんも今日は色々いってくれて面白かった)。
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何をもって「カルト」と呼ぶのか 

今日は『スピリチュアリティの社会学』の最終回。カルト問題やスピリチュアリティにかんするいわば「危機」を取り上げた箇所だった。要約担当はF原さん、コメンテーターはH川くんとA根くん。

これまでも数多くの教団が社会との軋轢を起こしてきた。そして幾つかの教団は、過去なら「淫祠邪教」、そして昨今は「カルト」呼ばわりされているわけだが、その「閾値」、すなわちどのようなことを「越えてしまった」ものを我々はカルト呼ばわりするのか、と問う自省が必要であろう。レッテル張りは安心するのに一役買っても、本質的な解決にはならない。
僕個人は「カルト」というのは、刑法に触れることをしでかした団体を事後的に呼ぶもの、という考えしかもっていない。つまりカルトの「本質」というものはないとする考えを持っている。「カルト」という名指しは、言うまでもなく社会的文脈に依存するものである。ところ変われば・・・という例が後を絶たない(日本の新宗教の幾つかはヨーロッパで「カルト」指定を受けているのは周知のことである)。

そして今度我々の精神状況を振り返ってみると、「価値相対主義」というものがメインの価値となり(K本さんがそのことを指摘した)、「ナンバーワンよりオンリーワンの価値観」が受け入れられ(これはA根君が指摘した)、結局「普遍的なるものを求めて彷徨っているのが現在の我々ではないか(この問題提起はH川君)」という問題に帰着するだろう。

この問題は一朝一夕で解けるようなものではない。しかし自分の「不安定さ」に気付くことが、逆説的に「自分探し」の迷宮からの脱出の第一歩になるだろうし、もしくはそのような迷宮に入り込まないための防護壁ともなるだろう。今のところ、僕はその程度しか言えない。

アナロジー的理解の限界 

えらく大仰なタイトルになったが、今日は何となく「アナロジー」を中心に回ったゼミだったような気がする。
今日は『スピリチュアリティの社会学』の5~8章。いわば、実際の現場での聞き書きを中心とした部分である。日本の新宗教、イギリスの新宗教、フランスにおける日本新宗教の布教という三つの現場をクロスオーヴァーして、どのような場にスピリチュアリティが生成するか、その現場を確認するという目的を持った諸論文だったと評せるだろう。要約担当はオシャケ(仮名)、コメンテーターはT野さんとN山さんだった。オシャケはすぐに自分の好きなサッカーの比喩というかアナロジーで何でも解析したがる癖がある学生だが(うまくいくときと外すときの差が激しいのが玉に瑕)、今回のN山さんのコメントなどは、「フランスに日本人が持っていった言葉(特に教団でしか用いられないジャーゴン)」がどのように理解(誤解)されているのだろうか、という問題提起を含んでおり、それはいきおい「アナロジー的理解の限界性」についての問題提起だったと(大袈裟に言えば)言えるだろう。

あと、認識論ではいつも問題になる卵鶏論争、要するに「その概念をあらかじめ知っていたから受容できたのか」「それとも受容したものに後で言葉が与えられてその経験が初めて意味を開示したのか」という問題も出された(と思う)。ここでは「スピリチュアリティ」という言葉や「自己を超えた何かと触れ合う感覚」なんて言葉が槍玉に挙げられたのだが(要するに「私は主体的にこの経験を受け入れた」と言っても、どこかにやらされ感が漂っているのではないか、ということ)。

けっこう難しいテーマに僕が混ぜっ返してしまったかも、とちょっぴり反省。

「甘え」といふこと 

今日は『スピリチュアリティの社会学』の三章と四章。三章はアル中患者が寄り集まってお互い「断酒」を誓い合うというAA(アルコホリックス・アノニマス)についての論文、四章はバグワン・シュリ・ラジニーシのORM(和尚・ラジニーシ・ムーヴメント)についての論文で、要約はO澤(A)さん、コメンテーターはOB澤さんとHさんだった。
議論の的になった(というか、僕が仕掛けたのだが)のは、AAの互助的な動きというのは、例えば他のマイノリティ運動や障害者の活動とどのような共通点があるかという問題と、表題に掲げた「甘え」という問題設定だった。
甘えというのは、コメンテーターのHさんが参考文献として土居健郎先生の甘え論を持ってきたことから派生したのだが、ラジニーシ・ムーヴメントのような、ニューエージに特有の「緩やかな結合」というのはどのような性質を持っているかと考えたとき、僕の脳裏にひらめいたのは「甘え」という言葉だったのだ。甘えというのはなかなか定義が難しいが、性質として「自分に自由な相対的な裁量権があり、しかもそれによって他者とのつながりが否定されたりしない」という状態だと思う。こういうのって、ベタベタした関係は嫌だけど、程々の付き合いは保っていたいというネットワーク型の社会運動のコミットメントと共通性があるのでは、というのが僕の問題提起。
あと、AAからの連想で、立岩真也氏の「弱くある自由」という命題も思い出したりした。
弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術 弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術
立岩 真也 (2000/10)
青土社

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