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前期ゼミラスト 

今日で前期の学部ゼミは無事修了。ちょうど、課題図書もきれいにフィニッシュ。ようやく担当者はOB澤さん、コメンテーターはF田さんとA部くん。今日読んだところは、今まで読んだことの総まとめという感じの箇所で、新しい知識としてはいわゆる「内観」(吉本内観)であるとか、土居健郎、河合隼雄のような心理学的な見地からの「日本人論」の性質、というトピックが目立つか。

“癒す知”の系譜―科学と宗教のはざま “癒す知”の系譜―科学と宗教のはざま
島薗 進 (2003/03)
吉川弘文館
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この書を選んだのは、ひとえに「癒し」という言葉は現在急に流行ったものではなく、長い伝統を持っているものであり、そういう知識を得て、現在の状況を客観的に見る視座を獲得して欲しかったからである。また、「癒し」というのは宗教的なものと分かちがたく結びついている、というのも実感できたと思う。コメンテーターの二人も、なかなか面白いことを言ってくれた。F田さんは生活実感から「食と癒しの分かちがたい関係」に焦点を絞り、A部君は「フランクリンのような徳と、近代日本の立身出世主義の共通性」と「商品化されパッケージ化される癒し」を考えさせるものだった、とまとめられるだろう。

とりあえず、このゼミブログもしばらくお休み。
後期の個人発表、期待しています。特に4年生、卒論に直結しているんだから気合いを入れるように。
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後期発表題目一覧(一応)完成 

今日に〆切を設定していた「後期個人発表題目」、ようやく全員分が揃った。最後の最後まで色々迷っていたのはK沼さんだったが(僕の部屋でも悩んでいた。仕事をやる気が湧かなかった僕は無責任なアドヴァイスを彼女に連発して時間つぶし)、色々な事典類を眺めさせ、とりあえず決心させる。
その一覧は以下の通り。四年生はほぼ先週出した「卒論題目」と一緒なので、あまり驚かないのだが。

3年生
・安土桃山時代の都市(まち)と人々 ~宣教師の視点から ~
・戦隊物のヒーローはなぜ赤色なのか?
・戦争とマインドコントロール
・戦後補償問題 or 歴史教科書問題
・装いと社会
・他界とその境界線
・アメリカの原理主義
・世界各国の結婚式
・京都の年中行事について ~地蔵盆を中心に~
・言語とアイデンティティ
・インターネットの普及による若者のありかたへの影響―普遍的価値観を見失った若者の迷走―

4年生
・「世界連邦運動」について―その歴史と現状―
・犯罪に見る現代の対人感情の在り方について
・サッカー界における差別問題とその報道について
・マンガの登場人物の中に潜むジェンダー観
・近世偽作における女性像
・ジャーナリズムの『職業倫理』を模索する―事件報道の方法と内容の変遷―
・文明開化期の法制度による民衆生活の変化
・近代小学校における洋装化の過程
・「国家神道」の形成と民衆への影響
・日本におけるジャズの受容

相変わらず「どうなる事やら」と思うタイトルが続くが、良い方に転ぶことを期待して、夏休みに入りたい(といっても、来週月曜日に前期最後のゼミがあるが)。

「体験」「実感」信仰 

タイトルだけ見ると、何か丸山眞男のおさらいのような気がするが、今日は島薗先生の本の第3章。森田療法を中心に、日本近代の心理療法の歴史を追った章だ。
要約担当者はT野さん、コメンテーターはK本さんとY村さん。
要約は淡々と終わったのだが、コメント発表が終わってから、今日は久々にオシャケ(仮名)とT野さんが大暴れ(笑)。久々に僕も匙を投げました。まあ、シーンとみんな黙っているゼミよりはよっぽど良いので、僕は滅多なことでは学生の発言を遮ったりしないが、今日はついつい遮りたくなるほどみんなのおしゃべりが止まらない。
今日、みんなのおしゃべりが暴走してしまったのは、「私はこう思う」と言うより「私はこう感じる」という実感を我も我もと喋ろうとしたからだ。つい「実感信仰」などという言葉を思い出してしまったゆえんである。
思わず僕も「ここはゼミなのだから飲み屋の話のように根拠のない思いつきや実感だけを喋る場所ではない。何故私はこう思ってしまうのかと、もう一段高いところから考える場所なのである」などと珍しく説教がましく言ったのだが、どれだけ学生諸君は判ってくれたか。

なお、宗教やスピリチュアリティの現場において、「体に直接訴える」ような実感というか体験は、非常なインパクトを持つというのはこれまでも指摘されてきたことだろう。最近のヨガの(再)ブームや、もしかしたらビリーズダイエット(笑)もそうかも知れぬ(ビリーの名前をオシャケが出して、そこからおしゃべりが暴走したのだが)。
そういう「体験」至上主義の極北として、我々は既にオウム真理教を知っている。この教団のエクササイズによって宿痾を癒された者達が、その体験の深さ故に、無茶なことを要求する教祖(全てを掌握するグルは敢えて弟子を鍛えるために無茶な修行を課す、という教義も出来上がっていたが)に逆らえなくなったということがあった。インテリが多かったと称されるこの教団だが、それはまさに頭でっかちで育ってしまった連中が1回の体験でころっとひっくり返るのは理解しやすいだろう。
などと、最後は強引にみんなの「実感信仰」を皮肉りつつ、じ実感信仰のオウムに持っていくという自分ながらひどいこじつけで今日のゼミは終了。

食と癒し 

今日は島薗先生の本の第2章。
明治期の「食」をめぐる数々の運動がどのような「代替知」を形成してきたか、という見取り図という感じの内容だった。この章で大きくページが割かれている桜沢如一の「マクロビオティック」は先生と一緒に東北沢の本部にお邪魔したのを懐かしく思いつつもう一度復習。
要約はH沖さん、コメントはK浦さんとK沼さん。
今日の議論で問題になった(というか、僕が問題にした)ことは、食をめぐる代替運動の実践家は、他のどのような運動に親和性があるか、ということ。アメリカだと端的に反戦運動やリベラル派、そしてエコロジー運動とリンクするだろう。もう一つはヒンドゥーやユダヤ教の一部の戒律のような宗教的背景を持ったヴェジタリアン運動などもあるが、日本でそれと同様のものを見つけるのは困難だ(たしか北白川の方にはヴィーガン、つまり菜食主義のカフェがあるらしいが、まだ行っていない)。
あとは、K沼さんから「カロリー○イツやサプリメントなどは何故「食べた気がしない」のだろうか」という非常に重要且つ根源的な問いが提出される。これは重要ですよ。
あと、「食べることは他の命をいただくこと」「食べることは命の交換(交歓?)」、などということを唱えると食肉過程の残酷さをどう受けとめるかが問題となってくるしね。
K浦さんのコメントで「明治期には食肉行為が外国からの野蛮な風習の侵入ということで排斥されようとしていなかったか?」という指摘がなされたが、それは正しい。特に民衆宗教では、松山教とか大本とかにそのような言葉が見られるのは有名(もちろん肉食を非難するというより、外国人恐怖xenophobiaの表れとしてだが)。

まあ、食べることで色々身体を自由にコントロールしようとする傾向は、今の時代ますます高まっていることであろう。コントレックスのようなまずい硬水を、スーパーモデルにあこがれつつ飲む現代の我々は、昔の「養生」思想や食餌療法を決して笑えない(それどことか、退化しているかも)。
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