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オタクのありかた 

今日は大澤先生の本の第3章。テーマは「オタク」。要約担当はF井さん、コメントはH川くんとK山さん。
内容としては、いつものように大澤節が炸裂。オタクこそが大澤先生の「論じやすい」モデルなのかも知れないと思いつつ読み返す。それは何かというと「アイロニカルな没入」という考え方。オタクは現実と虚構の区別がついていない、という非難ほど的外れなオタク批判はない、というのはもはや周知のことと思うが、何故それが的外れかというと、オタクは「虚構(もしくは「萌え」のような記号)」と充分判った上で没入しているからである。「言われなくたって、そんなこととっくに判っているよ」というわけだ。
ぼくはここで、本田透氏の紹介をして、二次元のキャラクターに萌えることによって、生きづらい現実を乗り越えるのだ、という彼の理説を説明した。これは今日のテーマにピッタリのものだからだ。
電波男電波男
(2005/03/12)
本田 透

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本田氏の本はどれも同工異曲なのだが、彼の筆力のせいでついつい読んでしまう(笑)。こういうのを読んでいるのって、やはり僕一人なんだよね・・・(まあ、ゼミの半分が読んでます、と答えるのも怖いが)。
今日の議論は元々「他称」だったオタクという言葉が、いつの間にかアイデンティティ、すなわち自称となっていったのは何故かという問いや、何をもって我々は「オタク」と「マニア」「ファン」などを区別しているか、という問題に突入。こんなの、すぐに答えが出るはずないけど。
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眼差しの力 

今日は大澤先生の本の第2章「虚構の時代」という部分。要約者はH山さん、コメントはM田さんとA部君。今回の章は、まず二つの少年殺人犯を比較することから始まる。共にその時代に人々を震撼させた事件である。1968年の少年N(永山則夫)、そしてその約30年後の1997年の神戸の酒鬼薔薇聖斗(少年A)が起こした事件である。
大澤先生の分析によると、この二つの事件は対照的な様相を見せている。H山さんの作った図表を少し修正しながら書き写すと

 <犯罪のベクトル>
 Nは「家郷→都会」     Aは「大都市の郊外」
 <家族との関係>
 Nは家族に疎外された   Aは家族に積極的に介入された
 <他者の目>
 Nには地獄だった      Aは「透明な存在」でいることを嫌がった
 <殺人の動機>
 Nには一応(万人が理解可能な)理由があった Aは殺人自体を目的とした(理解不能)


Nは「覗き見る人」であり、Aは「覗き見られる人」であった。
共に実は「人の眼差しの力」を恐れるなり欲したりした、という違いはあるが、二人の犯罪は「人の眼差しにどう対処しようとしたか」と言うところに共通項があるように思えた。サルトルとかレヴィナスの議論を思い起こさせる話だよな(実際、レヴィナスは引用されているけど。「汝、殺すなかれ」という顔の倫理学だ)。
全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)
(2006/01)
レヴィナス

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この「顔の倫理」あたりは、僕は内田樹先生のレヴィナス論から学ばせていただいたが、学生諸君から「説明しろ」と言われて立ち往生する(笑)。僕は苦し紛れに「死刑のときどうして顔を覆う頭巾をかぶらせたり、目隠しをしたりするのか。それはその眼差し、つまり顔が汝、殺すなかれとの命令を下すからではないのか」とか、「戦場でも人に向けて銃を撃つというのはものすごい心理的抵抗があるものだ。新兵訓練はその感覚を麻痺させることに主眼がおかれる」という話をしたり、「レヴィナスをもう一度引用すると、挨拶というのはその人の存在そのものを祝福する行為なのであり、人間は他者に挨拶するために存在しているのだ」なんてことまで口走り、自分で何を言っているのか判らなくなる。
戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)
(2004/05)
デーヴ グロスマン

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(↑戦場で人に向けてなかなか弾を撃てない、という僕の雑談の元ネタ)
よく生きる (ちくま新書)よく生きる (ちくま新書)
(2005/11)
岩田 靖夫

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(↑岩田先生からもレヴィナスのイロハを教えていただいた)

大澤先生の議論はこのあと「新人類」論や、森田芳光の「家族ゲーム」論や、ディズニーランド論や、連合赤軍論、三島由紀夫、村上春樹論などにどんどんスライドしていき、要約するのは困難だが、やはり面白いなあ(みなさんはちょっとついていけないものを感じるかも知れないが)。

今日のコメントで面白いと僕が思ったのは、まずM田さんの「魂を宿したものは壊しにくい(壊すことに抵抗がある)」という発言。まあ、これは彼女がレヴィナスの「顔の倫理」を自分の言葉で言い換えようとしたものだが、僕は彼女の言葉から逆に「魂とは壊しても壊しても壊しきれないと想定される残余」ではないか、と逆から考えてしまった(こういう発送がB型らしいかも知れないが)。
A部君のコメントでは、彼が昔僕の授業で読んだ『ディズニーランドという聖地』を引用しつつ、その虚構性の抗いがたい魅力として「ディズニーランドは永山則夫の欠落した子ども時代と、酒鬼薔薇聖斗が欲しかった自分を主役として見つめる目を併せ持った虚構空間になっているのではないか」という問題提起をした。これは面白い発想だと思う。鋭い。
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)ディズニーランドという聖地 (岩波新書)
(1990/07)
能登路 雅子

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この前の秋葉原事件のような「劇場型犯罪」も、他者の眼差しを欲した犯罪だった点で通じるものがあるだろう(これはH野君も指摘した)。
サルトルではないが、やはり「他人は地獄」なのかも知れない。

理想としての「アメリカ」 

今日から新しい本。大澤真幸先生の新刊だ。
不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))
(2008/04)
大沢 真幸

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僕としては、ゼミという機会を用いて、大澤先生の新刊を読んで、みんなにもちょっと抽象的な思考を学んで欲しいと思った次第。今日の要約者はD谷くん、コメンテーターはN山さん(咳で辛そうだった。早く治すようにね)、H野くん。
今日は序章と第一章を読む。序章のタイトルが「「現実」への逃避」という、ある意味これまたキャッチーなネタ。僕もついつい調子に乗って例の秋葉原の通り魔事件などに言及してしまう。
第一章は「理想の時代」というタイトル。これは敗戦後からしばらくの間の時代を見田宗介先生(大澤先生にとってもお師匠様だよな。僕も般教の「社会学」を習って優をいただいた)に習い「理想の時代」と措定し、アメリカや「土地」が戦後日本人にとって持っていた意味は何だったのか、という問題を矢継ぎ早に進めていく。要約者も困るが、補足説明をする僕も困る。それでついつい喋りすぎて、却ってみんなを沈黙させるんだよな。
現代日本の感覚と思想 (講談社学術文庫)現代日本の感覚と思想 (講談社学術文庫)
(1995/04)
見田 宗介

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重引になるが、戦後の天皇制に対する柳田国男と折口信夫の対照的な視座が興味深かった(元もと内田隆三先生の説。内田先生にも柳田の「日本の祭」で適当なレポート書いたら優をもらった。多謝)。
国土論国土論
(2002/11)
内田 隆三

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今日、議論になったのは「戦前と戦後の連続性」について。最近の社会学や歴史学では、ある意味常識に属する事柄だが、大澤先生のこの本では、ジョン・ダワーなどを引用しつつ、「上がすり替わっただけ」、要するに天皇(天皇によって義認された死者)からアメリカに「第三者の審級(出た!)」がスライドしただけ、ということが述べられる。
H野君は、吉見先生の本などを引用してなかなか頑張っていた。曰く「戦前からの連続性というのは、日本人の中に孕んでいる、アメリカ的なものに対する羨望や欲望の連続性ではないだろうか」と。
親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書 新赤版 1069)親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書 新赤版 1069)
(2007/04)
吉見 俊哉

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でも、相変わらずゼミは静か。来週から一つ一言ずつ無理矢理にでもあてようかな。

人は信じたいものしか信じない 

今日のタイトルは、身も蓋もないけど、人間心理の性であり、格言。
今日は『アメリカ文化の日本体験』の最終日。要約はK浦さん、コメントはM田さんとK山さん。
今日読んだ部分は「アジアで最も黄色人種らしからぬ人々」という章で、要するに明治日本の発展振りを目の当たりにしたアメリカ人が「日本人は中国人とか、他のアジア人とは人種からして違う」「よく見ると、けっこう白人に近いかも」「ロシアよりも日本の方が文明的だし、日本人を白人の一員にしてあげても良いんじゃないか」などと議論していた、というお話。まあ、要するに「黄禍論」の裏返しですな。
黄禍物語 (岩波現代文庫)黄禍物語 (岩波現代文庫)
(2000/08)
橋川 文三

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参考文献として、この橋川文三の本を回す。
裏返せば、アメリカの白人は「日本人、結構やるじゃん」→「これだけやれるというのは、彼等は白人に近い素質を持っているに違いない」→「名誉白人認定決定」というプロセスを経た、ということで、彼等は「アジア人も白人に匹敵する事業を成し遂げられる。ゆえに人種で優劣を論じるのは間違い」とは決してならなかったというのが今回のキモ。心理学者なら「認知的不協和理論ね、はいはい」と流してしまいたくなる事例だろう。別の言い方をすれば「日本(という他者)を経験し損なったアメリカ」の百年前の姿を教えてくれた本だったといえようか。
人種や民族の境界性が恣意的で可塑性に富む、というのはベネディクト・アンダーソン以来の「想像の共同体としての国民」論や、このところの構築主義的アプローチで明らかなわけだが、いくら口を酸っぱくしていっても、レイシズムは治まらないのも事実だ。この百年前の姿は決して今日の我々に無関係ではない(こういう状況を広く「ポストコロニアル」と呼ぶのである)。

で、今回の僕自身の反省点を述べておこう。こういう歴史研究の本を選ぶと、基本的に「それを知っているか否か」というモードになりやすく、自由な議論がしづらい憾みがあったと思う。しかも、去年、一昨年のゼミでは、けっこうどんな話題も拾って何か喋ろうとする数名のゼミ生がいたおかげで(心当たりがあるだろう)、議論が表面上が盛り上がって見えていたもので、僕がゼミ運営の努力を怠っていたことは否めないと思う。
で、次はいきなり議論していただきたいと思い、社会学の本。来週から、積極的に好き放題いっちゃってね。
不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))
(2008/04)
大沢 真幸

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戦略的本質主義としてのナショナリズム 

なんか、えらく大仰なタイトルになっちゃったな。
今日はJ.M.ヘニングの本の4章、5章。要約担当者はH川くん、コメントはK浦さんとN山さん。
内容としては、4章が「アメリカの芸術家たちが、いかにして日本を本質主義的な眼差しで見ていたか」という典型的な「オリエンタリズム問題」、第5章が大隈重信、井上馨、伊藤博文、陸奥宗光たちの外交努力がいかなるもので、アメリカの世論やジャーナリズムは「近代化」する日本をどのように評価したか、というもの。H川君も、特に第5章の政治史的な流れの要約に手こずって(僕としては適当に流してくれても良かったのだが、学生の立場としてはそうもいくまい)、その背景にある文化史的なことになかなか目が行き届かなかったことがちょっと残念(端的には「憲法」というものがどのような意味を持っていたか、というような問題。「東洋的専制」の偏見をいかにして取り除くか、黄禍という評判をどのようにして取り除くか、なんてことだが)。
第4章でアメリカの芸術家たちに対置する形で岡倉覚三(天心)が引用されるのだが、僕は天心や新渡戸稲造のように英語で日本の宣伝をした人たちを「戦略的本質主義」の走りだと評価したい、と解説を加える。内向きには「国粋主義(これはN山さんのレジュメにあったが、三宅雪嶺や陸羯南)」、外向きには天心や新渡戸などが巧まざる役割分担を行った、というのが明治中興期の思想史的な流れだと個人的には思う。
あとは福沢諭吉の「脱亜論」の解説をちょっとする。この辺は、修論で詳しくやったことだから、まあ得意な方だよな。
K浦さんのコメントもなかなか面白かった。彼女は、「先進国の男性と後進地域の女性」という組み合わせの多さ(蝶々夫人とかポカホンタス)や、「後進地域の男どもはろくでなしと表象される」という重要な指摘を行いつつ、主にアジア人達がハリウッド映画でどのように扱われたか、ということで、以下の本を引用していたのだ。
イエロー・フェイス―ハリウッド映画にみるアジア人の肖像 (朝日選書)イエロー・フェイス―ハリウッド映画にみるアジア人の肖像 (朝日選書)
(1993/02)
村上 由見子

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この本は、数年前の卒業生で、「アメリカ映画における日本人」というテーマで卒論を書いたH田さんや、「ヴェトナム戦争を題材にした映画」というテーマで卒論を書いたY城さんの面倒を見るついでに、付き合いで読んだのだった(硬派至る皆さんも、先輩達の卒論を読んでみると良いかも)。
今日も僕だけはしゃべり過ぎちゃった。反省はしてないけど、再来週あたりからもうちょっと議論が盛んになれば、と思う。ゼミで喋ると、就活の時の「集団面接」や「グループトーク」に強くなるのに(とN山さんが言っていた)。
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