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前期ゼミラスト 

日付が変わってしまったが、昨日が前期最後のゼミだった。ようやく大澤本から離れられるぜ・・・(自分が選んだくせに)。今日の要約担当はK平さん、コメントはK沼さんとF原君。
この本のラストだが、ますます色んな話に拡散して、僕も要約するのが苦痛になってきた(アガンベンやら、ベンヤミンとか、アドルノ・ホルクハイマーとか。要約が一番難しい思想家ばかり集めている気さえするな。そこが大澤先生の偉大さなのかも知れないけど)。K平さんは、「間に合わなかった」と言うことで一部手書きのレジュメで、その出来が危ぶまれたが、聞いてみると意外なことにまともな要約。ホッとする。
アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人
(2001/09)
ジョルジョ・アガンベン上村 忠男

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暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
(1994/03)
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今日は疲れているので、内容の要約は放棄させてもらいます。このブログをご覧の10名弱の皆さま、済みません。コメントでは、K沼さんの「色々抽象的なこと言ってきたのに、現実の手触りに戻ろう、ってかんじの終わり方はいかがなものか(大意)」というコメントは苦笑しながら同意。いや、もちろん重要だとは思うんですが、これまでの「空中戦」は何だったのか、と思ったのも事実。後書きに書くのではなく、それこそペシャワール会の中村哲さんや、松本サリン事件の河野さんの「倫理」というのに的を絞ってくださっても・・・と無い物ねだりの一つもしたくなるってもんだ。
決して面白くなかったのではないけど(僕的には)、議論に向かなかったかもな・・・と反省。学生諸君に「議論しにくいものを選んでゴメンね」と謝る。
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後期個人発表仮タイトル 

後期、僕のゼミは一人1時間の個人発表ゼミ。テーマは自由に自分で設定して、1時間人を退屈させずに発表できるか、という修行の場。輪読ゼミに比べると楽かも知れぬが、「出来る発表」を見てしまうと、緊張が走るはずだし、そういう身構えを持ってもらうことも重要な点。だから、後になればなるほど「今まで色んな人の発表を聞いてきて、その程度で済むと思っているの?」と、僕の意地悪度が増すことになるので、諸君も心するように(笑)。テーマ一覧は以下の通り。

・童謡「かごめかごめ」の研究
・「貧困」について
・宗教と世界状勢(仮)
・ファッションから見る女性格差
・「理由無き犯罪世代」について
・モンスターペアレントについて
(以上3年生)
・「無宗教」と日本人
・日本人論の変遷について
・小学校歴史教科書の移り変わり
・泉州地域における地車祭の宗教的役割
・往生要集と宝物集における地獄の比較
・外国人観光客について
・アメリカ人の宗教的価値観
・現代の京都の地蔵盆について
・日本の精神療法
・幼児期・児童期の子供に見せる夢の教育的意義について―サンタクロースを中心に―
(以上4年生)

うーん、またしてもバラバラ、というか、特に3年生諸君はまだ煮詰まっていない感ありあり。
夏休みの宿題(暑中見舞いの形で個人研究の進捗状況を僕に知らせること)を忘れるんじゃないよ。

コンスタティヴとパフォーマティヴ 

今日は大澤先生本の第5回目。僕もゼミ生も疲労の色が濃い(笑)。特に今日は本のタイトルにもなっている章「不可能性の時代」というもの。いやあ、よく判らなかったね。個別のお話しは結構面白く納得がいくのだが、それらがどう有機的につながっているのかがよく見えない憾みがある(このことを指摘したのは要約者のF本さんとコメンテーターのA部君。先生もその通りだと思います)。
話はあっちいったりこっちいったりで要約不可能なのだが(これが「不可能性の時代」というわけではない)、多重人格障害と偽記憶の問題はいかに20世紀後半に出てきたのかという話や、我々が「不可解な事件」とするものの特徴は徹底した「家族の否定」だとか、バラバラに原子化された今だからこそ「他者」を渇望しているのだとか(強烈な身体感覚に訴えるものへの耽溺もここから説明できる)、サブカルチャーでは「反復」がキーワードになっているとか(この辺の議論は、大澤先生、ほとんど東浩紀君の理説に寄りかかっている)、そういう話はちりばめられていて、要約担当者のF本さんも上記のような嘆きを漏らすのも無理はない。
K川君のコメントは、「携帯電話」というツールがどのように我々の身体を縛っているか、という実感からのもので、A部君は現在を「不可能性の時代」と診断する大澤説に「それはちょっと違うんじゃないの、その時代が終わってから懐古的に時代診断はいうべきじゃないの」というある意味真っ当な批判。A部君につられて、大澤先生に限らず、学問というのは「事実を淡々と話しているようでいて実は主張を込めているもの。多さ早生性の時代区分も事実というよりはかくあれかし、という側面が強い」、というような、要するにJ.L.オースティンのお勉強をしていた訳じゃないけど(大体僕の専門外だよ)、話の勢いで僕が口走ってしまったのは「学問というのはパフォーマティヴなものなの。コンスタティヴに見えても、それ自体が主張なの」ということに帰着してしまった。
言語と行為言語と行為
(1978/07)
J.L.オースティン

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途中でレヴィナスっぽい「顔(他者)」の倫理まで出てきて、僕も収拾不可能なので、消化不良のまま今日は終了(その直後に飲み会の約束もあったしね)。

強いられた「自由」 

今日も例の大澤真幸本の第4回目。今日は「リスク社会再考」という章。いやあ、今回も難しかったね。噛み砕いて説明しているうちに「何で大澤先生、こんなに難しく書くんだろうね、同じことの繰り返しなのに」と自分でも驚く毒舌を吐いてしまう。要約はTさん、コメントはF田さん。今日は何故か欠席が多く、いつも以上に静かなゼミ。
今回の内容を僕なりに噛み砕くと、「神」と名付けられたような「第三者の審級」が無くなった今、我々は自分の行為の結果を自分で全て引き受けねばならず(こういうのが近代社会の「再帰性reflexivity」だな)、今までは「天災」とかで処理していたようなこと(いわゆる「危険性danger」)も、自分の選択した結果として受けとめるような感性が優勢となりつつある、これが「リスク社会」だ、ということだと思う。噛み砕きすぎかもしれないが。
要するに現代人は、これまたサルトルっぽい物言いになるが「自由を強いられている」わけだ(ついでに言うと、「快楽」すら強制されている。「仕事に生き甲斐」という言説の蔓延はその一例)。
しかも、自分が経験したこともないような事態に対して「あれかこれか」の選択を迫られることすらある。例えば「環境問題(地球温暖化問題)」とか、クローン技術のような生命科学の分野など、我々にとってまさに未知の分野に対して方向付けを行わねばならないわけだ。医療の世界ではそういうのが「インフォームド・コンセント」となって現れているのが良い例だろう。お医者さんから「どの治療が良いですか?」と聞かれたって、ほとんどの人は自信を持って選択できるはずがない。もしできるとすれば、「無理な延命治療は止めてください」とか、特殊例だとエホバの証人の患者が「無輸血で治療してください」とかを要求する程度だろう(ちなみに、僕はそういう患者に対するガイドラインを作成する作業に多少関わりつつある。病院としては「倫理委員会」を作ってそういう問題を考える姿勢を取ることが要請されているから、僕のような人間にもお呼びが掛かる)。

今回のF田さんのコメントになかなか面白い部分があった。彼女は就職活動の経験から「本当にやりたい仕事を探せ」とか「とにかく働いてみろ」という矛盾したメッセージ(典型的なダブル・バインドメッセージだよね)を送るリク○ビなどに不満を表明し(笑)、本書の「労働自体も快楽でなければならないという感覚(p.142)」について考察していた。これには就活経験者の4回生(N山さんとか)が素早く反応。就活中の「企業が何を求めているのかが曖昧模糊として解らない(しかも権限は圧倒的に向こうにある状況)」について、本書の言い方だと「まなざされている不安」のようなものを感じていたそうだ。それはよく判るなあ。何をやっても否定されるようなカフカ的不条理の世界もありえるもんね。出しゃばったら怒られ、大人しくしていたらそれも否定されたりして「ほな、どないせいっちゅうねん」といいたくもなるだろう。
審判 (岩波文庫)審判 (岩波文庫)
(1966/01)
カフカFranz Kafka

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そして、就職試験に落とされるときも「君は成績が悪かったから」とは言わず、「ご縁がなかった」という曖昧な言葉でごまかされるわけだが、ここから僕のお喋りが暴走。先週は色事師カサノヴァのアイロニーが出てきたが、そこでは偶然を必然と読みかえる(偶然落ちた雷を天罰と解釈するなど)「宗教性」というものが語られていたが、この「ご縁」という言葉は必然(成績が悪かった)というのを偶然(ご縁がなかった)と言い換えることによって、企業の側としても「不可抗力だったのだ」という言い訳を提供する話形ではないか、と指摘した。ヴェクトルが逆でも結局「宗教」というオチになってしまった。ウーン、これはどうしたことだ(笑)。偶然を必然と読みかえることも、必然を偶然と読みかえることも「意志が推測できる第三者の審級(神人同形論anthropomorphismのような考えだよね)」と「意志が読み取れない第三者の審級(ピューリタン的な神かなあ?)」と言うことで、存在としては表裏一体というか、等価なのかも知れないな。

でも、他者からの眼差しというのも圧倒的に重要な場合がある、とF田さんは例の秋葉原の無差別殺人事件のKを引き合いに出す。彼は「誰にも見られていない」という不安を抱えたまま暴走した(彼の供述を文字通り信じるなら、だが)。彼の「暴走」を支えた「第三者の審級」は何だったんだろうか。自分の境遇に同情を寄せてくれる「想像の共同体」だったのかも、などと彼女のコメントを聞きつつ思う。
あと、K浦さんの、セカイ系ライトのベルの構造が「強制された先験的選択」に従ったものではないか、という指摘は面白かった(彼女も元ネタが本田透のようだが)。要するにセカイ系では未熟な少年少女が「セカイの滅亡」というとてつもなく大きな問題に直面させられてあれかこれかの選択を強いられる、という話形が多いということである。
というわけで、今日も人数が少ないことも手伝って、一層僕が喋り倒して終了。
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