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感動は「共有」できるか 

今日も山田先生の本の続き。要約はT原さん、コメントはO崎さん。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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今日読んだのは「私秘化する感動体験」という章で、要するに「それは○○に過ぎない」というシニカルな社会学的分析(大抵構築主義的な立脚点を持つ)言説が蔓延ったおかげで、「これは共有できる感動体験です」と言えるようなことが目減りして、その分社会自体もギスギスして「痩せて」しまったんじゃないか、という問題意識で書かれた部分と言えるだろう。しかも、ベラーの言うところの「表現的個人主義」が「普通」になってしまったおかげで、我々は、ハレとケの区別もないまま、却って身を細らせるように無理矢理「感動体験」を繰り返しているのではないか、という問題提起もあったな。
心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ
(1991/05)
ロバート・N. ベラーウィリアム・M. サリヴァン

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山田さん自身がこの章の冒頭で引用している学生の言葉通り「感動なんて個人的なもの」に決まっているわけだが、実は感動とは個人的なもので治まらない、というのがキモ。なんたって、映画とかが典型的だが、「感動大作」というのは、半ばマニュアル的に「作られてしまう」ものなのだから(個人的な感動とみんなでの感動の区別が付かない、と指摘したH野君は、ある意味正しい)。今日は咳をしていたけど、K坂君のコメントがなかなか冴えていたな。
だんだん、みんなに発言を求める形式も定着してきたかな(今年はけっこう僕からあてて発言を無理矢理してもらっている。自分から手を挙げなくても、色々考えていることは判るからね)。
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「普通」の溶解とネオリベ的雰囲気? 

えらく大仰なタイトルをつけてしまったが、今日から、以下の本をゆっくりゼミで輪読。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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(あ、関係ないけど、firefoxでこの画面は入力しているのだが、商品を入れたら、日本語入力がオフに戻っているんだよな。何とかしてくれ。気づかずローマ字でダダダとうっちゃった)。
僕にとって、山田先生は、大学院の先輩のN井さんの旦那さんである、という薄い縁があるのだが(お会いしたことはなし)、パラパラ立ち読みして、これは色々考えさせられるかも、と思い購入しておいたのだが、今回ゼミで輪読しようと思ったのは、今年のテーマが「らしさの向こう側へ」なんていう格好つけたものにしたので、それにピッタリだと判断したからである。今日の要約はF瀬さん、コメントはH野君。
今日は第一章を読んだのだが、大雑把な内容としては、我々は「これは普通だ」「常識だ」といって、その社会の価値を次世代にバーバル、ノンバーバルな手段でもって伝えてきたわけだが、その価値の共有が無くなり、人々は原子化されて、まさに「リキッド・モダニティ」を生きざるを得ない状況に立ち入っている(バウマンのこの本も、勿論参考文献にあった)。
リキッド・モダニティ―液状化する社会リキッド・モダニティ―液状化する社会
(2001/06)
ジークムント バウマン

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我々は、相対化の風潮を一旦棚上げして、もう一度「普通」という言葉に希望を見出しても良いのではないか、というような内容。うーん、自分でまとめていて自信がなくなるけど、まあ、大外しはしていないと思う。
今回「ネオリベ」という言葉を持ってきたのは、コメンテーターのH野君だが、僕もついつい基本的に「反ネオリベ(のつもり)」の人間なので熱くなってしまうw。そのついでに、一昨日テレビ東京の「週刊ニュース新書」で知った、倫理もへったくれもない極悪な「貧困ビジネス(僕は取材を見る限り、あそこは明白に詐欺だと思う)」みたいなものを許してしまうということはどういうことか、市場の自浄作用なんか実は当てにならずに、剥き出しの倫理抜きの弱肉強食状況ができる可能性だってあるんだぞ、と力説(番組の後、あまりの酷さに、キャスターの大江麻理子さんが涙ぐんだのだ(2010/5/22)。大江さんを泣かした、というだけでも、あの詐欺社長はまさに万死に値するし、実際、本当の意味でどうしようもない人なんだと思う。要するに「平気で嘘をつける人」なのだ)。
ただ、K坂君やO崎さんが言ったように、こういうネオリベ批判、「普通」への回帰というのは、勢い「若者批判論」に流れやすいのも事実。そこには用心せねば。

NIMBYとケガレ 

今日は、以下の本に収録されている論文2本を読む。
排除する社会・受容する社会―現代ケガレ論 (歴博フォーラム)排除する社会・受容する社会―現代ケガレ論 (歴博フォーラム)
(2007/05)
不明

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これは歴博で行われたシンポが元になった本らしいのだが、読んだのはトム・ギル先生のNIMBY運動に関するものと、関根先生の「現代社会でケガレ概念を考える意義とは」という趣旨のもの。要約担当はI賀さん、コメントはI田君。
ギル先生のものは「うちの裏には勘弁」と訳される(というか、こう訳しているのは僕だが)、NIMBY(Not In My Back Yard)運動についての考察。これは例えば葬儀場やゴミ焼却場、ホームレスのための施設、原発、基地(コメントでも当然ながら普天間基地についてのものが出た)など、幅広く使える概念であり、またある意味ありふれた運動でもある。実際、僕の勤務する大学の近くに葬儀場の建設計画が立ち上がったとき、周辺住民はこぞって反対の意思を示して、その家には黄色いハンカチが翻っていた(そのせいか、計画は撤回された模様)。でも、これは「受け入れる地域」が限られることによってますます「元々そういう施設があった地域へ」と抑圧が働きやすい、というのも容易に想像できるだろう。
関根先生のは、要するに「ケガレ」と「不浄」は違うのだ、という概念構成の話から始まり、ケガレ、というもののポジティヴな意味を探る、という、結構アクロバティックな試み。その言いたいことは理解できるのだが、具体的にどうすればいいの、という素朴且つ愚かな質問が脳裏からどうしても去らないのも確か。
コメントのI田君の取りだした例で面白かったのが、彼の田舎では、村の神事を行う際に、その役目を司る家は「精進潔斎」が強いられる、というもの。民俗学者が喜んで見に行きたくなるような事例だよな。
結局今回も僕がメアリー・ダグラスの話とかをしてお茶を濁す(一応みんなに話を振って一言ずつ発言してもらったが)。やっぱ、沈黙に耐えられず喋り過ぎちゃうんだよな、俺。反省なんかしないけど。
汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
(2009/03/10)
メアリ ダグラス

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「族」は甦るさ、何度でも! 

今日のテーマは若者文化、サブカルチャー論。読んだ論文はこの本に所収の難波先生のと編者の成実先生のもの。要約はS原さん、コメントはK坂くん。
コスプレする社会―サブカルチャーの身体文化コスプレする社会―サブカルチャーの身体文化
(2009/06)
成実 弘至

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難波先生は、主に80年代辺りまでの「ツッパリ文化」「ヤンキー文化」を論じ、その衰退ぶりを描いたもの。まあ、この論文は、以下の本の一部の要旨、って感じもしたな。
族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史族の系譜学―ユース・サブカルチャーズの戦後史
(2007/06/04)
難波 功士

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そもそも「昔語り」の部分が多く(僕などは「横浜銀蝿」という固有名詞で悶絶)、うちの大学に来るような真面目な学生からも遠い文化で、議論が盛り上がらない(笑)。
コメントのK坂君やH野君が「階級」や「日本と外国のサブカルチャーは位相が違う」というような趣旨のことを言って、ようやく議論が軌道に乗る。
大まかな結論(というか想像だけど)としては、日本は常に「パンク」や「モッズ」を産むような階級的な力学に乏しく「○○族」というものが出ては消えて永続性がないのでは、ということに話が落ち着いた(本当かどうかは保証の限りではない。なんたって、データがないんだから)。僕は女子の多いゼミで、敢えて「森ガール」などという流行のタームを出して反応をうかがってみたりもする。
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