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行きすぎは何事も良くない 

今日のゼミも、山田先生の本。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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今日は第5章。要約はH野君、コメントはI賀さん。
まずこの章では、話のはじめにフェミニズムへのいわゆる「バックラッシュ」の流れを紹介し、「言葉狩り」というもののメカニズムを簡単に提示している。「バックラッシュ」に関しては、本もたくさん出て、僕も数冊読んだので、学生諸君にも見せる。要するにこの辺りの議論をまとめると、本人が選択したわけでもない生得的なカテゴリカルな属性でもって単純化するのも問題だし、ちょっとした「失言」を鬼の首を取ったように「差別主義者」というカテゴリーの中に放り込むのも、同種の「暴力」だと言うこと。この辺りは、山田さんの主張する「普通」というものから当然のように導き出される、正しい意味で穏健な保守的態度だろう。
どんな言葉だって、文脈によって解釈され、その文脈によって意味はスライドするのだから、「常に悪い差別語」というのも実は存在しない。まあ、明白に相手を黙らせるために使われるような言葉は当然止めた方が良いが(「~のくせに」というのが典型例)。構築主義を推し進めると、どうしても「受け身(知らない間にあるカテゴリーの中に放り込まれて、再生産させられている)」というの語法を使いがちだが、「構築していく」という能動性にも目配りせねばならない、という主張はその通りだろうけど、具体的に「ほな、どないせいっちゅうねん」となると途端に難しくなる。
今回の章は正直言ってすっきりする章ではなかったが(それは著者の誠実さの現れでもあろうから、非難するには当たらない)、生得的なカテゴリーを優先しすぎることも(性別や国籍なんかはその典型)、「構築された」と批判的な構えに終始してしまうのも同じく不毛、その中道を歩めないか、というある意味面白くもないが真っ当な提言がなされていたと思う。この著者の言うように、「サザエさんは家父長制の再生産に寄与している」という浅薄な文化表象批判をしてもなにも始まらないのだ。
ただし、「個々人を見ればいい人」という形で、その人が所属するあるコミュニティを免罪するというのは、やはりレベルの違う話である。そのことには注意しなければならないだろう。「私には関係ない」という個人主義の構えと「私にも責任がある」というコミュニタリアン的な構えとの間に引き裂かれる存在、これが正確な「人間の姿」なのだろうから。
以下は今日回した本。
バックラッシュ!  なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
(2006/06/26)
上野 千鶴子宮台 真司

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「ジェンダー」の危機を超える!―徹底討論!バックラッシュ (青弓社ライブラリー)「ジェンダー」の危機を超える!―徹底討論!バックラッシュ (青弓社ライブラリー)
(2006/08)
若桑 みどり皆川 満寿美

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構築主義を再構築する構築主義を再構築する
(2006/10/25)
赤川 学

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脱アイデンティティ脱アイデンティティ
(2005/12)
上野 千鶴子

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メタ化していくコミュニケーション 

今日も山田先生の本。今日は「私の専制」という章。要するに相対主義の中で「私(の感覚)」しか確実なものがなくなり、コミュニタリアン的な倫理を再構築することは難しくなっているけど、やっぱり必要だよね、という感じの内容だったと思う。要約者はK坂くん、コメントはOS木さん。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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まずは統計資料から生き甲斐や充実感について「関係性嗜癖(友人・仲間への依存度の高まり)」が指摘され、それは言葉としては「場を弁える」倫理から、「空気を読む」メタレベルの状況倫理になったという。
その後は電車内の化粧を事例に「公私反転」が見られる、という議論になっていくのだが、コメンテーターのOS木さんがまさにこれを取り上げ、例えば女性専用の深夜バスとかでは、到着間際になったら、恐らくほとんどの人が化粧し始めるのでは、という問題提起を行い、「公共」のグラデーションというか、多元性を指摘した。
空気を読む、ということで僕は、森真一先生の「切れるとはどういう事か、それは気遣いが届かなかったことに対する恨みなのではないか」という話をまず振ってみる。あと、個人的なコンテクストを最優先し、それを押しつける事例として、「オレ様化する子どもたち」も紹介。
自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)
(2000/02/10)
森 真一

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オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)
(2005/03)
諏訪 哲二

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話はそのままスライドして(って、僕のゼミではいつもそうだけど)、お笑い番組の「文脈依存性」、つまりハイコンテキスト性についての議論となる(こう書くとかっこいいけど、要するに「空気読み合戦」のこと)。例えば爆笑問題の太田光氏は「芸人は敢えて空気を読まない存在なのだ」と言っているらしいけど、もう1段メタな視点に立てば、そういう役割を自らに課し、期待に応えているという点で、既に空気を読みまくっているわけだ。「笑い」というのはどういうメカニズムで起こるのか、というのは哲学でも決着の付いていない大問題だが、「ズレ」というのが大きな要素をなす、というのには大きな反論はあるまい。そのズレは「面白くない芸人をいじることが面白い」というところまで行ってしまうことになる(「あらびき団」などはその良い例だ)。それとは逆に「鉄板ネタ」というのもお笑いにはあって、常に「ズレ」だけを目指しているのではない、という指摘もされた。うーん、今回のテキストの本筋とは関係ないけど、頭は使ったね。
今日はこんな所かな。

「反抗」できない若者 

今日も山田先生の本を読む。今日は第3章「若者文化の宴の後に」。要約はF田さん、コメントはS原さん。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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今日は主に「音楽」という若者文化を考えた部分。一昔前は「上層(もしくは大人)=クラシック」「中下層(もしくは若年層)=ロック」というように、非常に色分けがくっきりしていたわけだが、その「反抗としてのロック」という図式があてはまらなくなり、プログレやパンクまで出てきて、最終的に若者は「独自の文化」を持てなくなった、というのが今回読んだ部分での中心となる議題だったと思う(つい思いあまって、プログレの解説まで偉そうにしちゃった。King Crimsonとか、そういう超有名なものだけだけど。山田さんは、そのような「自分の聴いている音楽の来歴を調べようともしないところ」に若者の文化的貧困を見出している)。
イギリスほどの階級文化じゃない日本は、マルクス主義っぽい向こうのカルスタの方法論がなかなかすんなり応用できないよね、とか言いつつ、授業中に回した本は以下のもの。カルスタの金字塔ですな。
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)
(1996/09)
ポール・E. ウィリス

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金八先生のセカンドシリーズ(腐ったミカンの方程式)で描かれた反抗や不良文化とか、尾崎豊のように「行儀良く真面目なんてできやしなかった」と歌えたのはある意味「若者文化」が文字通りサブカルチャー、もしくはカウンターカルチャーとして存在できたからであり、ミリオンセラーが出てもそれを知らない国民がいる、というように文化・嗜好が「島宇宙化」してしまった昨今では「みんな一緒」という価値より差異化そのものが目的化されており、一枚岩的に語ることなど到底おぼつかない。さあどうすればいいでしょうかね・・・というところだが、コメントのS原さんのコメントで面白い指摘が。それは「上の文化を参照しようともしないし、それを知った上で反抗しようともしない」と山田さんに診断された昨今の若者だが、このところ立て続けに出ている「昔のヒット曲のカヴァー」というのはどのように位置づけられるか、という問題提起。世代内の等質性と世代間ギャップが同時にあるからこそ、というのが彼女の見立てだが、これはカラオケとかにも言えるよね(彼女もそういうコメントをした)。最近僕は学生諸君とカラオケに行かないが、何故かというと、先ず第一に忙しいから、というのもあるが、行っても余り面白くないのだ。何故って、学生諸君が歌っている曲、ほとんど知らないから。だからのれない。逆に、同じ世代の連中と行くと「80年代縛りしようぜ」とか言って、異様に盛り上がってしまうこともあるのだ(笑)。
僕としては、診断を下される当の若者であるゼミ生諸君にもうちょっと反論を期待していたのだが、あまりそう言う発現がなかったのが残念。来週はもっと「若者批判」に近い章だから(単純な若者バッシングでは決してないが)、その辺りを期待しよう。
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