今日は森真一さんの本の4章と5章。テーマは、彼が指す広義の「マクドナルド化」。マクドナルド化とは、周知の通りリッツァが提出して社会学の世界を席巻した問題提起的な概念だが、森さんは「感情をコントロールして効率性を求める」という心理学的なテクニックも、これの一部をなすと見て、議論を進めている。
5章では、グラムシの「ヘゲモニー論」も援用して(グラムシのヘゲモニー論は、フーコーの「生権力論」と近似の概念だと個人的には思う)、個々人が流動化しつつ合理化を高めようとする現代社会を描こうとしている(が、この章はこの本で一番判りづらいと思う)。要約担当のA部君も、ちょっと5章では困っていたな。
コメンテーターはF原君とO澤Aさん(藤子不二雄Aみたいだな、こういう書きかたすると。もしくは「アンナ・O」か?)だったが、F原君が「元来数値化できないようなことを数値で見せてしまう適性検査とか、内申書とかって問題なんじゃないのか?そしてそういうものが重んじられるようになると学歴の意味が相対的に低下するのではないか」と興味深い指摘をしてくれたので(鋭い!)、就職活動を経験した4年生にこの話題を振ってみる。学歴よりも、コミュニケーション能力とかが重んじられる、本田由紀氏が言う「ハイパー・メリトクラシー」的な雰囲気は学生も感じているようだ。彼女たちの証言によると、出した履歴書の大学名の欄をわざと墨塗りして面接に臨む企業も多いそうだ。なるほどなあ。実体験を語られると面白いものだ。僕は就活の経験もろくにないからね。
O澤さんのコメントは、僕なりにまとめると「かけがえのない自分」というイデオロギーと、「会社の取り替えの利く部分としての私」、という二人の両立はどのようなメカニズムで行われているか、ということだった。replacabilityとirreplacability、これはシビアなことを言うと、会社(ひっくり返して社会といっても良いが)が求める「個性」というのは、会社が求める「ロールプレイ」を演じることのできる「個性」であればよいという身も蓋もない現実がある(これはK浦さんが指摘したことだ。彼女も鋭かった)。
というわけで、O澤さんはゼミ中僕が回した土井隆義さんの本を借りて帰った。
![]() | マクドナルド化する社会 ジョージ リッツァ (1999/05) 早稲田大学出版部 この商品の詳細を見る |
5章では、グラムシの「ヘゲモニー論」も援用して(グラムシのヘゲモニー論は、フーコーの「生権力論」と近似の概念だと個人的には思う)、個々人が流動化しつつ合理化を高めようとする現代社会を描こうとしている(が、この章はこの本で一番判りづらいと思う)。要約担当のA部君も、ちょっと5章では困っていたな。
コメンテーターはF原君とO澤Aさん(藤子不二雄Aみたいだな、こういう書きかたすると。もしくは「アンナ・O」か?)だったが、F原君が「元来数値化できないようなことを数値で見せてしまう適性検査とか、内申書とかって問題なんじゃないのか?そしてそういうものが重んじられるようになると学歴の意味が相対的に低下するのではないか」と興味深い指摘をしてくれたので(鋭い!)、就職活動を経験した4年生にこの話題を振ってみる。学歴よりも、コミュニケーション能力とかが重んじられる、本田由紀氏が言う「ハイパー・メリトクラシー」的な雰囲気は学生も感じているようだ。彼女たちの証言によると、出した履歴書の大学名の欄をわざと墨塗りして面接に臨む企業も多いそうだ。なるほどなあ。実体験を語られると面白いものだ。僕は就活の経験もろくにないからね。
O澤さんのコメントは、僕なりにまとめると「かけがえのない自分」というイデオロギーと、「会社の取り替えの利く部分としての私」、という二人の両立はどのようなメカニズムで行われているか、ということだった。replacabilityとirreplacability、これはシビアなことを言うと、会社(ひっくり返して社会といっても良いが)が求める「個性」というのは、会社が求める「ロールプレイ」を演じることのできる「個性」であればよいという身も蓋もない現実がある(これはK浦さんが指摘したことだ。彼女も鋭かった)。
というわけで、O澤さんはゼミ中僕が回した土井隆義さんの本を借りて帰った。
![]() | 「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える 土井 隆義 (2004/09) 岩波書店 この商品の詳細を見る |

