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この学科最後の「卒論中間発表会」 

毎年恒例の「卒業論文中間発表会」が12日、13日の二日にわたって行われた。今年の卒論提出予定者は28名ほど。一人約25分の持ち時間で発表及び質疑応答。
残念ながら、僕が最初に採用されたこの「国際文化学科」は廃止が決まり、今年が最後の中間発表会(来年からは教員は吸収された先の卒論中間発表会に出席することになる)。
最後だからか、普段厳しい先生方も手加減なさったか?僕の予想よりはよほど柔らかい感じで、初日の午前中から午後に書けてはサクサク進行していく。学生側のディフェンシヴな発表形式も「炎上」しなかった大きな要因なのだが。要するに「ここまで調べました。この先は今からやります。ごめんなさい」と最初から白旗ちらつかせつつやる発表、と意地悪く評することもできるだろう(僕だってよくやるけど)。そうなると教員側も「じゃあこれから頑張ってね」と言うしかないよなw。それに大体事前に先生に見ていただいているので、発表そのものが大きく崩壊しているのも少なかったし。
てなわけで、二日間も一日中発表を聞く。二日目は僕のゼミ生が半分以上を占めるので、こっちもかなりの緊張を強いられる(笑)。昔は学生と一蓮托生に他の先生に叱られて、コーヒー飲めなくなるくらい胃を痛くしたものだ。だが、僕の予想以上に同僚が年をとって優しくなったのか、学生たちの発表がましだったのかは判断に苦しむところだが、「これはひどいね」という発表もコメントもほとんどなく(一部ひどい発表はあったのだが、はっきり言って想定内。教員側からの理不尽な言いがかりに思えるコメントもほとんどなかった)、この学科最後の中間発表会は無事平穏に終了。僕としてはちょっと拍子抜け。最後だから多少(あくまで、多少、ですよ)「炎上」してもよかったのに、なんて人非人的なことを思ったりもする。

告白しちゃうけど、以前はこの発表会の場で結構教員同士で喧々囂々のやりとりをしちゃったりもしていたのだが(習ってきたディシプリンがバラバラだったので、正直相容れないことも多かった。一種の「代理戦争」をさせてしまった学生にとってはいい迷惑だったよね。今更だけど済まない)、何年も一緒に仕事していると「あの人はああいう(指導を行う)人だから」とお互いに諦めの境地になった、というのもあるかも。要するに、お互い「頑固者同士」だったってことですね(笑)。僕自身は、他分野のやり方も「あり」とできるだけ考える方だと思うのだが(以下自粛)。

終わった後は、毎年の事ながら僕の方が「飲まなきゃやってられない」心情になるので、学生たちの打ち上げの場に無理矢理参加させてもらうことにする。一部の学生は僕の顔なんて見たくもなかったかもしれないが(笑)。
一次会は北山駅前の焼き鳥屋で、食べ盛りの学生さんたちと行って、しっかり散財(まあ、これも想定内)。その後二次回は、女子学生数名に囲まれて(というか、男の子がみんな帰っちゃった)ロイヤ○ホストでデザートとおしゃべり(パフェのたぐいを数年ぶりに食べる)。ここもちょっぴりおごる。

後期ゼミ開始 

今日から後期ゼミの開始。後期は例年のごとく、卒論の途中経過を一人一時間たっぷりしゃべってもらう趣旨で行う。前期輪読、後記個人発表というスタイルは、僕の経験した学部ゼミの形を踏襲したもの。ただし、今年は4年生だけなので、回数が少なくなるのが寂しいが・・・(とはいえ、合宿も行う)。

まず、第一回目の今日はO崎さん。コメンテーター及び司会者はT原さん(彼女は去年僕のゼミに来ていなかったので、コメンテーターと司会者を兼ねるというやり方が分かっておらず、しばらくフリーズして沈黙が続いた)。
O崎さんの発表は「ヨーロッパにおけるグリーンツーリズム」というもの。農村に行って色んな体験したり、環境問題について考えたりするグリーンツーリズムは発祥の地のヨーロッパはもちろん、近年は日本でも行政主導で実施されているところだが、まず彼女観光学」と呼ばれるジャンルの学説史を整理し(要するに、観光人類学の流れだが)、ヨーロッパのグリーンツーリズムを体験した日本人の声なども紹介しながら一種の「日欧比較」をした。ヨーロッパと日本ではそこそこ差があるんだね(でも発表からは日本もだんだんヨーロッパ型に近づきつつあるような気がするが)。参考文献は以下のようなもの。
日本とアジアの農業・農村とグリーン・ツーリズム―地域経営/体験重視/都市農村交流日本とアジアの農業・農村とグリーン・ツーリズム―地域経営/体験重視/都市農村交流
(2006/07)
宮崎 猛

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グリーン・ツーリズムグリーン・ツーリズム
(1993/04)
山崎 光博大島 順子

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観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)
(1995/02)
ジョン アーリ

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観光人類学の戦略―文化の売り方・売られ方 (SEKAISHISO SEMINAR)観光人類学の戦略―文化の売り方・売られ方 (SEKAISHISO SEMINAR)
(1999/04)
橋本 和也

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結構探せばあるもんだ(「グリーンツーリズム」で検索すると、そこそこ本は出てくる。
内容としては、まだ途中経過、というのもあるがまだ生煮え、というところ。そのあたりをゼミ生諸君がちゃんとピアレビューでつついていたから、感心。みんな、成長したね・・・。今のところ、事実関係を調べるのに精一杯で、そこから考察、というところまでは至れていないので、この三ヶ月で何とかしてもらおう。

初めてのピアレビュー(卒論題目) 

今日の学部ゼミ(総勢11名)では、A4一枚に「卒論の予定タイトル・概要・主な参考文献」を書いたレジュメを全員に用意してもらい、それをお互い批評し合い、ダメ出しをするという試みを初めて行ってみた。というのも、今週にうちの学科では卒論を提出する意思を確認するための儀式として「卒論題目提出」というのがあるので、その直前に指導教員の僕だけでなく、友人達からの思わぬ視点からの質問や突っ込みも有用ではなかろうか、と思ったのだ。
で、結果ですが、4時過ぎから始まり、7時半に終わりました。3時間強。さすがにグロッキー。後で人間関係がギクシャクしちゃうほどの激しい突っ込みはさすがに学生諸君同士ではできないので、そういう嫌な役回りは大体僕。とはいえ、そこそこ完成度も高く、「そのまま頑張ってくださいね」「僕はその分野よく知らないから、○○先生に聞いてね」と一言で終えても良いような発表から、「春休みから全然進んどれへんやないか、この3ヶ月、何しとってん、こら」と思わず僕が関西弁で恫喝したくなるようなものまで千差万別。というわけで、全員均等に10分程度、と思っていたが、5分ほどで終わるようなものから、説教も含めて25分くらいかかるものもあって、予定よりも大幅に遅くなった。
まだ提出まで3日ほどありますので、もう一度見直して、考えるように。

輪読ゼミラスト 

長々と読んできた山田先生の本も、今週でラスト。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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要約はI田君、コメントはM嶋さん。ラストの章は、問題提起という性格が強く、それ故「本当にそういえるのか」「根拠は?」「ほな、どないせいっちゅうねん」という、なかなか厳しめの学生諸君のツッコミが噴出。
僕も「信頼がそもそも崩壊しているのに、何を信頼すればいいのか」というOS木さんの疑問や、「昔ながらの信頼システムって、果たして存在したのか」というK坂君の疑問はなるほどなあ、と思いつつ、「多文化主義とかで、他人の行動に口を出せない、と言うのはやはり忸怩たるものがあるよなあ」と著者に同感したりもするのだった。
M島さんのコメントでは、山田さん自身も参加したインタビュー、アンケート調査の「統計やアンケートの数字」からは、日本人はそれほど利己的とは言えないのではないか、との意見が出された。これも重要な指摘、と言うか、「アンケートの数字」については、結構慎重に解釈するべきとアドヴァイス。また、「振り込め詐欺」などは、「信頼社会が存在しているからこその犯罪である」点など、「利己的で用心深い」日本人という像は実は一面的なのではないか、など考えさせられる点は数多い。
信頼社会のゆくえ―価値観調査に見る日本人の自画像 (リベラ・シリーズ)信頼社会のゆくえ―価値観調査に見る日本人の自画像 (リベラ・シリーズ)
(2007/03)
ロバート キサラ、

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以下は僕がゼミ中に参考として回した本。
不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)
(2000/06)
佐藤 俊樹

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軋む社会 教育・仕事・若者の現在軋む社会 教育・仕事・若者の現在
(2008/05/26)
本田 由紀

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「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)
(2004/09)
土井 隆義

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今日で前期の輪読ゼミはおしまい。来週は「卒論のタイトルをお互いに批判し合う」という初の試み、再来週は後期の予定や合宿の責任者などを決める予定。楽にはなるけど寂寥感は伴う。

行きすぎは何事も良くない 

今日のゼミも、山田先生の本。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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今日は第5章。要約はH野君、コメントはI賀さん。
まずこの章では、話のはじめにフェミニズムへのいわゆる「バックラッシュ」の流れを紹介し、「言葉狩り」というもののメカニズムを簡単に提示している。「バックラッシュ」に関しては、本もたくさん出て、僕も数冊読んだので、学生諸君にも見せる。要するにこの辺りの議論をまとめると、本人が選択したわけでもない生得的なカテゴリカルな属性でもって単純化するのも問題だし、ちょっとした「失言」を鬼の首を取ったように「差別主義者」というカテゴリーの中に放り込むのも、同種の「暴力」だと言うこと。この辺りは、山田さんの主張する「普通」というものから当然のように導き出される、正しい意味で穏健な保守的態度だろう。
どんな言葉だって、文脈によって解釈され、その文脈によって意味はスライドするのだから、「常に悪い差別語」というのも実は存在しない。まあ、明白に相手を黙らせるために使われるような言葉は当然止めた方が良いが(「~のくせに」というのが典型例)。構築主義を推し進めると、どうしても「受け身(知らない間にあるカテゴリーの中に放り込まれて、再生産させられている)」というの語法を使いがちだが、「構築していく」という能動性にも目配りせねばならない、という主張はその通りだろうけど、具体的に「ほな、どないせいっちゅうねん」となると途端に難しくなる。
今回の章は正直言ってすっきりする章ではなかったが(それは著者の誠実さの現れでもあろうから、非難するには当たらない)、生得的なカテゴリーを優先しすぎることも(性別や国籍なんかはその典型)、「構築された」と批判的な構えに終始してしまうのも同じく不毛、その中道を歩めないか、というある意味面白くもないが真っ当な提言がなされていたと思う。この著者の言うように、「サザエさんは家父長制の再生産に寄与している」という浅薄な文化表象批判をしてもなにも始まらないのだ。
ただし、「個々人を見ればいい人」という形で、その人が所属するあるコミュニティを免罪するというのは、やはりレベルの違う話である。そのことには注意しなければならないだろう。「私には関係ない」という個人主義の構えと「私にも責任がある」というコミュニタリアン的な構えとの間に引き裂かれる存在、これが正確な「人間の姿」なのだろうから。
以下は今日回した本。
バックラッシュ!  なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
(2006/06/26)
上野 千鶴子宮台 真司

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「ジェンダー」の危機を超える!―徹底討論!バックラッシュ (青弓社ライブラリー)「ジェンダー」の危機を超える!―徹底討論!バックラッシュ (青弓社ライブラリー)
(2006/08)
若桑 みどり皆川 満寿美

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構築主義を再構築する構築主義を再構築する
(2006/10/25)
赤川 学

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脱アイデンティティ脱アイデンティティ
(2005/12)
上野 千鶴子

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メタ化していくコミュニケーション 

今日も山田先生の本。今日は「私の専制」という章。要するに相対主義の中で「私(の感覚)」しか確実なものがなくなり、コミュニタリアン的な倫理を再構築することは難しくなっているけど、やっぱり必要だよね、という感じの内容だったと思う。要約者はK坂くん、コメントはOS木さん。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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まずは統計資料から生き甲斐や充実感について「関係性嗜癖(友人・仲間への依存度の高まり)」が指摘され、それは言葉としては「場を弁える」倫理から、「空気を読む」メタレベルの状況倫理になったという。
その後は電車内の化粧を事例に「公私反転」が見られる、という議論になっていくのだが、コメンテーターのOS木さんがまさにこれを取り上げ、例えば女性専用の深夜バスとかでは、到着間際になったら、恐らくほとんどの人が化粧し始めるのでは、という問題提起を行い、「公共」のグラデーションというか、多元性を指摘した。
空気を読む、ということで僕は、森真一先生の「切れるとはどういう事か、それは気遣いが届かなかったことに対する恨みなのではないか」という話をまず振ってみる。あと、個人的なコンテクストを最優先し、それを押しつける事例として、「オレ様化する子どもたち」も紹介。
自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)
(2000/02/10)
森 真一

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オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)
(2005/03)
諏訪 哲二

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話はそのままスライドして(って、僕のゼミではいつもそうだけど)、お笑い番組の「文脈依存性」、つまりハイコンテキスト性についての議論となる(こう書くとかっこいいけど、要するに「空気読み合戦」のこと)。例えば爆笑問題の太田光氏は「芸人は敢えて空気を読まない存在なのだ」と言っているらしいけど、もう1段メタな視点に立てば、そういう役割を自らに課し、期待に応えているという点で、既に空気を読みまくっているわけだ。「笑い」というのはどういうメカニズムで起こるのか、というのは哲学でも決着の付いていない大問題だが、「ズレ」というのが大きな要素をなす、というのには大きな反論はあるまい。そのズレは「面白くない芸人をいじることが面白い」というところまで行ってしまうことになる(「あらびき団」などはその良い例だ)。それとは逆に「鉄板ネタ」というのもお笑いにはあって、常に「ズレ」だけを目指しているのではない、という指摘もされた。うーん、今回のテキストの本筋とは関係ないけど、頭は使ったね。
今日はこんな所かな。

「反抗」できない若者 

今日も山田先生の本を読む。今日は第3章「若者文化の宴の後に」。要約はF田さん、コメントはS原さん。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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今日は主に「音楽」という若者文化を考えた部分。一昔前は「上層(もしくは大人)=クラシック」「中下層(もしくは若年層)=ロック」というように、非常に色分けがくっきりしていたわけだが、その「反抗としてのロック」という図式があてはまらなくなり、プログレやパンクまで出てきて、最終的に若者は「独自の文化」を持てなくなった、というのが今回読んだ部分での中心となる議題だったと思う(つい思いあまって、プログレの解説まで偉そうにしちゃった。King Crimsonとか、そういう超有名なものだけだけど。山田さんは、そのような「自分の聴いている音楽の来歴を調べようともしないところ」に若者の文化的貧困を見出している)。
イギリスほどの階級文化じゃない日本は、マルクス主義っぽい向こうのカルスタの方法論がなかなかすんなり応用できないよね、とか言いつつ、授業中に回した本は以下のもの。カルスタの金字塔ですな。
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)
(1996/09)
ポール・E. ウィリス

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金八先生のセカンドシリーズ(腐ったミカンの方程式)で描かれた反抗や不良文化とか、尾崎豊のように「行儀良く真面目なんてできやしなかった」と歌えたのはある意味「若者文化」が文字通りサブカルチャー、もしくはカウンターカルチャーとして存在できたからであり、ミリオンセラーが出てもそれを知らない国民がいる、というように文化・嗜好が「島宇宙化」してしまった昨今では「みんな一緒」という価値より差異化そのものが目的化されており、一枚岩的に語ることなど到底おぼつかない。さあどうすればいいでしょうかね・・・というところだが、コメントのS原さんのコメントで面白い指摘が。それは「上の文化を参照しようともしないし、それを知った上で反抗しようともしない」と山田さんに診断された昨今の若者だが、このところ立て続けに出ている「昔のヒット曲のカヴァー」というのはどのように位置づけられるか、という問題提起。世代内の等質性と世代間ギャップが同時にあるからこそ、というのが彼女の見立てだが、これはカラオケとかにも言えるよね(彼女もそういうコメントをした)。最近僕は学生諸君とカラオケに行かないが、何故かというと、先ず第一に忙しいから、というのもあるが、行っても余り面白くないのだ。何故って、学生諸君が歌っている曲、ほとんど知らないから。だからのれない。逆に、同じ世代の連中と行くと「80年代縛りしようぜ」とか言って、異様に盛り上がってしまうこともあるのだ(笑)。
僕としては、診断を下される当の若者であるゼミ生諸君にもうちょっと反論を期待していたのだが、あまりそう言う発現がなかったのが残念。来週はもっと「若者批判」に近い章だから(単純な若者バッシングでは決してないが)、その辺りを期待しよう。

感動は「共有」できるか 

今日も山田先生の本の続き。要約はT原さん、コメントはO崎さん。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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今日読んだのは「私秘化する感動体験」という章で、要するに「それは○○に過ぎない」というシニカルな社会学的分析(大抵構築主義的な立脚点を持つ)言説が蔓延ったおかげで、「これは共有できる感動体験です」と言えるようなことが目減りして、その分社会自体もギスギスして「痩せて」しまったんじゃないか、という問題意識で書かれた部分と言えるだろう。しかも、ベラーの言うところの「表現的個人主義」が「普通」になってしまったおかげで、我々は、ハレとケの区別もないまま、却って身を細らせるように無理矢理「感動体験」を繰り返しているのではないか、という問題提起もあったな。
心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ
(1991/05)
ロバート・N. ベラーウィリアム・M. サリヴァン

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山田さん自身がこの章の冒頭で引用している学生の言葉通り「感動なんて個人的なもの」に決まっているわけだが、実は感動とは個人的なもので治まらない、というのがキモ。なんたって、映画とかが典型的だが、「感動大作」というのは、半ばマニュアル的に「作られてしまう」ものなのだから(個人的な感動とみんなでの感動の区別が付かない、と指摘したH野君は、ある意味正しい)。今日は咳をしていたけど、K坂君のコメントがなかなか冴えていたな。
だんだん、みんなに発言を求める形式も定着してきたかな(今年はけっこう僕からあてて発言を無理矢理してもらっている。自分から手を挙げなくても、色々考えていることは判るからね)。

「普通」の溶解とネオリベ的雰囲気? 

えらく大仰なタイトルをつけてしまったが、今日から、以下の本をゆっくりゼミで輪読。
「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)「普通」という希望 (青弓社ライブラリー)
(2009/07)
山田 真茂留

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(あ、関係ないけど、firefoxでこの画面は入力しているのだが、商品を入れたら、日本語入力がオフに戻っているんだよな。何とかしてくれ。気づかずローマ字でダダダとうっちゃった)。
僕にとって、山田先生は、大学院の先輩のN井さんの旦那さんである、という薄い縁があるのだが(お会いしたことはなし)、パラパラ立ち読みして、これは色々考えさせられるかも、と思い購入しておいたのだが、今回ゼミで輪読しようと思ったのは、今年のテーマが「らしさの向こう側へ」なんていう格好つけたものにしたので、それにピッタリだと判断したからである。今日の要約はF瀬さん、コメントはH野君。
今日は第一章を読んだのだが、大雑把な内容としては、我々は「これは普通だ」「常識だ」といって、その社会の価値を次世代にバーバル、ノンバーバルな手段でもって伝えてきたわけだが、その価値の共有が無くなり、人々は原子化されて、まさに「リキッド・モダニティ」を生きざるを得ない状況に立ち入っている(バウマンのこの本も、勿論参考文献にあった)。
リキッド・モダニティ―液状化する社会リキッド・モダニティ―液状化する社会
(2001/06)
ジークムント バウマン

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我々は、相対化の風潮を一旦棚上げして、もう一度「普通」という言葉に希望を見出しても良いのではないか、というような内容。うーん、自分でまとめていて自信がなくなるけど、まあ、大外しはしていないと思う。
今回「ネオリベ」という言葉を持ってきたのは、コメンテーターのH野君だが、僕もついつい基本的に「反ネオリベ(のつもり)」の人間なので熱くなってしまうw。そのついでに、一昨日テレビ東京の「週刊ニュース新書」で知った、倫理もへったくれもない極悪な「貧困ビジネス(僕は取材を見る限り、あそこは明白に詐欺だと思う)」みたいなものを許してしまうということはどういうことか、市場の自浄作用なんか実は当てにならずに、剥き出しの倫理抜きの弱肉強食状況ができる可能性だってあるんだぞ、と力説(番組の後、あまりの酷さに、キャスターの大江麻理子さんが涙ぐんだのだ(2010/5/22)。大江さんを泣かした、というだけでも、あの詐欺社長はまさに万死に値するし、実際、本当の意味でどうしようもない人なんだと思う。要するに「平気で嘘をつける人」なのだ)。
ただ、K坂君やO崎さんが言ったように、こういうネオリベ批判、「普通」への回帰というのは、勢い「若者批判論」に流れやすいのも事実。そこには用心せねば。

NIMBYとケガレ 

今日は、以下の本に収録されている論文2本を読む。
排除する社会・受容する社会―現代ケガレ論 (歴博フォーラム)排除する社会・受容する社会―現代ケガレ論 (歴博フォーラム)
(2007/05)
不明

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これは歴博で行われたシンポが元になった本らしいのだが、読んだのはトム・ギル先生のNIMBY運動に関するものと、関根先生の「現代社会でケガレ概念を考える意義とは」という趣旨のもの。要約担当はI賀さん、コメントはI田君。
ギル先生のものは「うちの裏には勘弁」と訳される(というか、こう訳しているのは僕だが)、NIMBY(Not In My Back Yard)運動についての考察。これは例えば葬儀場やゴミ焼却場、ホームレスのための施設、原発、基地(コメントでも当然ながら普天間基地についてのものが出た)など、幅広く使える概念であり、またある意味ありふれた運動でもある。実際、僕の勤務する大学の近くに葬儀場の建設計画が立ち上がったとき、周辺住民はこぞって反対の意思を示して、その家には黄色いハンカチが翻っていた(そのせいか、計画は撤回された模様)。でも、これは「受け入れる地域」が限られることによってますます「元々そういう施設があった地域へ」と抑圧が働きやすい、というのも容易に想像できるだろう。
関根先生のは、要するに「ケガレ」と「不浄」は違うのだ、という概念構成の話から始まり、ケガレ、というもののポジティヴな意味を探る、という、結構アクロバティックな試み。その言いたいことは理解できるのだが、具体的にどうすればいいの、という素朴且つ愚かな質問が脳裏からどうしても去らないのも確か。
コメントのI田君の取りだした例で面白かったのが、彼の田舎では、村の神事を行う際に、その役目を司る家は「精進潔斎」が強いられる、というもの。民俗学者が喜んで見に行きたくなるような事例だよな。
結局今回も僕がメアリー・ダグラスの話とかをしてお茶を濁す(一応みんなに話を振って一言ずつ発言してもらったが)。やっぱ、沈黙に耐えられず喋り過ぎちゃうんだよな、俺。反省なんかしないけど。
汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
(2009/03/10)
メアリ ダグラス

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